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明智光秀の末裔が主張「本能寺の変の標的は家康のはずだった」

ライフ 投稿日:2014.08.01 10:00FLASH編集部

「本能寺の変について定説となっているもののほとんどは創作です。そのもととなっているのが事変の4カ月後に秀吉が書かせた『惟任退治記』(惟任・これとう=光秀)。つまり秀吉にとって都合のいい公式発表で、これにより“逆賊・光秀”のイメージは決定づけられたわけです」

 

そう語るのは明智憲三郎氏(67)。明智氏の末裔である。本業は歴史とは無関係のシステムエンジニアである彼が、既存の学説にとらわれずSEの手法を取り入れ分析したところ、思いもかけない結論に行きついたのだという。

 

光秀の出自は美濃を基盤として発展した土岐氏。最盛期には美濃、尾張、伊勢を掌握するほど栄華を誇ったが、その後没落。光秀はその一族の再興を悲願としていた。織田の家臣として、外様ではあっても大きな力を持つようになり、土岐一族の再興が見えてきたが、信長の野望を知ったことで光秀の中に不安が生まれたという。

 

「その野望とは『唐入り』、中国の武力制圧です。その構想は信長と交流のあったイエズス会のフロイスによる報告書にはっきりと示されている。日本統一後、国内の領地は信長の息子たちに分け与えられ、臣下の武将を国外征服に送り出す――それが実現されれば一族は国外で滅亡する、と光秀が判断したのも当然でしょう」

 

加えて年齢も問題だった。光秀の享年は55というのが定説だが、『当代記』(江戸初期の記録資料)によれば67だったとの記述が。

 

「嫡男はまだ若く、一族を率いる力はない。自分が生きているうちに、なるべく早くに信長を止める必要があったのです。これが謀反を起こした本当の理由です」

 

事変の最大の謎とされるのが、信長がなぜわずかな手勢だけで本能寺に宿泊したか、である。ここにこそ事変の核心が潜んでいるのだと明智氏は言う。

 

「本能寺で討たれるはずだったのは、信長ではなく家康だった。この直前、信長は家康を三河から安土に呼び出し、その後大坂を見物させています。事変当日、信長は本能寺に家康を呼び出しており、そこで家康を討つつもりだった。用心深い家康を本能寺に招き入れるためには自らの警護が手薄であり安心させる必要があったわけです。そして家康を討つ予定だったのが、ほかならぬ光秀だったのです。光秀軍の生き残り兵の証言『本城惣右衛門覚書』には、信長の命で家康を討つと思っていた、という記述があります」

 

しかし、光秀が討ったのは家康ではなく信長だった。

 

「信長は事前にこの企みを光秀と打ち合わせていたはずです。しかしそれが仇となった。信長はまさか光秀が裏切るとは思わなかったでしょうが、光秀にとっては信長を襲撃する千載一遇のチャンス。そして企てを確実に決行し、その後の同盟のためにも事前に家康にこの計画を話し、綿密に調整をおこなっていた。2人が事前に談合していることは複数の資料から読み解くことができます」

 

大河ドラマや教科書ではわからない、真実はここにあるのかもしれない。

 

(週刊FLASH 2014年8月12日号)

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