濱田浩一郎(はまだ・こういちろう)
1983年生まれ、兵庫県相生市出身。歴史学者、作家、評論家。現在、大阪観光大学観光学研究所客員研究員。現代社会の諸問題に歴史学を援用し、解決策を提示する新進気鋭の研究者。著書に『日本史に学ぶリストラ回避術』『現代日本を操った黒幕たち』ほか多数
社会・政治FLASH編集部
記事投稿日:2016.08.16 12:00 最終更新日:2016.08.19 17:31
大阪観光大学観光学研究所客員研究員の濱田浩一郎氏が、SMAP解散について考察する。
日本中に激震が走った。人気アイドルグループSMAPの解散報道である。もともとのキッカケは、所属するジャニーズ事務所と、SMAPを育て上げた女性マネージャーの対立だといわれる。
女性マネージャーはメンバーと独立を目指すが、賛成する4人(中居正広・稲垣吾郎・草彅剛・香取慎吾)と反対する木村拓哉が対立、結局、マネージャーは退社した。その後、メンバー同士の溝が埋まらず、引退という道を選ぶことになる。
私はこの報道を聞いて、ビートルズの解散騒動を思い出した。
ビートルズは、デビュー前、リバプールの中心地マージーにあるライブハウスで人気を博していた。時代は第2次世界大戦の傷跡から立ち直ったころ。ベビー・ブーム世代の若いエネルギーが爆発する寸前だった。
その人気ぶりを知ったのが、地元のレコード店のオーナーだったブライアン・エプスタイン。彼はまもなく専属マネージャーとなり、業界への売り込みを開始する。
営業はなかなか実らなかったが、ようやくEMIレコードに拾われ、1962年9月、『ラブ・ミー・ドゥー』でメジャーデビュー。
ブライアンは、マージー時代の荒々しさを封印。メンバーにスーツとネクタイを着せ、マッシュルーム・カットの髪形を採用するなど、新たなイメージ戦略に乗り出した。
これが成功し、ビートルズはイギリスから世界へ羽ばたくことになるのだが……しかし、心中、納得いかなかったのがジョン・レノンだ。喜んで変化を受け入れたポール・マッカートニーとの対立の芽は、すでにデビュー時代からあったわけだ。
ブライアンは、アメリカで4万人の大公演をしたり、斬新なレコード・カバーをデザインしたりと、プロデュース能力には定評があった。
しかし、メンバー間の意見対立の調整に苦労し、プライベートでも当時まだ理解の少なかった同性愛を隠す心労などがあり、徐々に薬におぼれていく。
結果、ブライアンは1967年8月、ロンドンの自宅で死んだ(享年32)。以後、ビートルズはメンバー間の対立が激化し、『レット・イット・ビー』の方向性に納得いかなかったポール・マッカートニーが脱退したことで、1970年4月に解散した。
解散直後、ジョン・レノンがあるインタビューに応じている。インタビュアーはいきなり「あなたは、ビートルズですか」と聞いたため、ジョン・レノンはこう答えた。
「いいえ、ビートルズではありません。私は私です。だれであろうと、ひとりでは、ビートルズではありえません。4人がそれぞれに役割をはたしたうえでビートルズができていたのですから、ひとりではビートルズにはなりえないのです」(『回想するジョン・レノン』より)
この言葉こそ、まさに今のSMAPに捧げる言葉だろう。
ジャニーズ事務所といえば、トップのジャニー喜多川氏のスター発掘力が有名だ。
古くはフォーリーブス、たのきんトリオ、シブがき隊、少年隊、光GENJIから、TOKIO、V6、KinKi Kids、嵐などなど、グループでも個人でも才能あふれる数々の人材を発掘・育成している。
ジャニーさんは「僕が好きになった少年であっても、それぞれに持って生まれた立ち位置がある。それを理解できない子は脱落する」と語っている。
ジョン・レノンの言葉も、ジャニーさんの言葉もまったく同じ内容だ。どんなグループにもメンバーそれぞれの役割があり、それがうまく回転したとき、初めて名をなすグループに成長できる。
逆に言えば、その役割が果たせなくなったら、グループは存続できないのだ。
ジャニーさんは「僕は生きている花しか興味はない」とも言っている。生きている花、つまりファンの心をワシ掴みし続けるのがアイドルの条件である。メンバー同士の対立が長引けば、「花」は生気を失い、全員が枯れてしまうだろう。それを避けるためにも、今回の解散は必然だったのかもしれない。
(著者略歴)
濱田浩一郎(はまだ・こういちろう)
1983年生まれ、兵庫県相生市出身。歴史学者、作家、評論家。現在、大阪観光大学観光学研究所客員研究員。現代社会の諸問題に歴史学を援用し、解決策を提示する新進気鋭の研究者。著書に『日本史に学ぶリストラ回避術』『現代日本を操った黒幕たち』ほか多数