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渡辺裕之、行きつけのイタリアンで語る「大林宣彦監督の遺言」

エンタメ・アイドル 投稿日:2020.07.07 16:00FLASH編集部

渡辺裕之、行きつけのイタリアンで語る「大林宣彦監督の遺言」

 

 ブルーのシャツに、細身のパンツ。テラス席に座った渡辺裕之(64)は、目立っていた。高田馬場の駅近くの裏通りに、渡辺が愛するイタリアン「マツシタバッコス」がある。

 

「ここは、1986年10月に放送が始まった『正義の味方株式会社』(フジテレビ系)で共演した、松下晋司さんの店です。視聴者から寄せられた、『牛舎の掃除を手伝って』『逆上がりを教えて』といったリクエストをかなえてあげる番組で、とにかくロケが過酷でした。

 

 

 そのため出演者とスタッフの絆が強まり、2020年の1月にも、ここで同窓会をやりました。添加物を一切加えない自然派ワインが、100種類もあるんですよ」

 

 茨城県水戸市出身の渡辺。ドラマーに憧れる少年だった。

 

「小学校5年のとき、ボーイスカウトの鼓笛隊で太鼓を叩いたら、先生に『渡辺はドラマーになるために生まれてきた』と絶賛されたんです。褒められると木に登る性格で、本格的に練習を始めました。14歳のときにはキャバレーのバンドに飛び入りし、ギャラを3000円もらいました(笑)」

 

 水戸商業高校に入学すると、仲間とバンドを結成し、「楽器ができて、芝居でも笑わせ、泣かせるエンターティナーになろう」と決意。目指したのは、石原裕次郎やフランキー堺だった。

 

 拓殖大学商学部卒業後、ルフトハンザ航空の準社員、外国人モデルのマネージャーなどに就いた。1982年、『オン・ザ・ロード』で映画デビューしたが、俳優の仕事はあまりなかった。そんなときに、あの「リポビタンD」のCM出演の話が舞い込む。

 

「モデル事務所やキャスティング会社が集まるパーティがあり、『真田広之さんの次をやってみないか』と、お話をいただいたのです。

 

 カメラテストは、東銀座の首都高速横にある公園。そこで制作会社の方から、『走って。そこを飛び越えて。空手のポーズをやって』と指示があり、懸命にやった覚えがあります」

 

 CM出演後は、仕事の依頼が急増した。1986年からは、お茶の間の女性を夢中にさせた昼ドラマ『愛の嵐』『華の嵐』『夏の嵐』(東海テレビ、フジテレビ系)の三部作に主演。30歳だった。

 

「街を歩いているときの、周囲の視線が違いましたね(苦笑)。『女子高生が、このドラマを観たいがために早退した』という話も聞こえてきました。この撮影で、本当に多くのことを学びました。

 

 共演した長塚京三さんからは、『最後は主役のお前で終わるんだから、視線を遠くに置いてキメたほうがいい』と教えられ、美術さんからは『声を低くすると、声のマイクの乗りがいい』と助言をいただきました」

 

 渡辺にとって、貴重な日々だった。

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