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小木茂光が告白「一世風靡セピア」誕生秘話と卒業後の「色眼鏡」
エンタメ・アイドルFLASH編集部
記事投稿日:2020.07.23 16:00 最終更新日:2020.07.23 16:00
「このお店に初めて来たのは、10年くらい前。フラッと入ったら、偶然にも、ご主人と僕の妻が熊本の同じ中学出身。盛り上がって話すうち、ご主人の姉は、妻の同級生であることがわかったんです」
車移動が多い小木茂光(58)にとって、自宅にほど近い「味市」は、外で酒を楽しむ数少ない店だ。
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「一世風靡時代のエピソードですか? それを話すと、とても長くなりますよ」
小木は生レモンサワーのグラスを傾けながら笑った。
「もともと、服飾デザイナー志望だったんです。福井の高校を卒業後、僕より早く上京していた友人が『東京で一旗あげるぞ。竹の子族やローラー族が流行しているから、俺たちもチームを作ろう』と、新宿のディスコで、カッコいい男をスカウトしていたんです。僕はついて行っただけ(笑)」
男女およそ20人が集まり、原宿で踊ることになった。
「ですが、一帯を取り仕切る男に、『場所代』を請求されて……。1人500円だから払ってもよかったけど、その友人が『納得いかない』と、男の事務所で直談判。どういう交渉だったのか知りませんけど、2人は意気投合し、僕たちは目立つ場所をもらえたんです」
そこで大手芸能事務所、スターダストプロモーションの細野義朗社長(当時)の目に留まった。
「『芸能界に興味があるのか』と聞かれ、『なくはないけど』なんて生意気な返事をしました(笑)。“預かり” みたいな形で事務所で雑用をするうち、社長が『新メンバーを入れて、路上を稽古場に見立てたパフォーマンスをしたらどうか』と言うんです。
そのときに入ってきたのが風見しんご、野々村真、羽賀研二たち。柳葉敏郎はリーゼントでキメていて、『ジョニーと呼んでください』って挨拶していました。そんなメンバーで、『劇男零心会』を結成しました」
そのパフォーマンスは、多くのマスコミに取り上げられた。そして1983年、「劇男零心会」から独立する形で、「劇男一世風靡」が結成される。そこに加わったのが、ファッション誌「ポップティーン」でライターをしていた哀川翔だった。
「このころ、路上パフォーマンスには3000人が集まりました。1987年には、ニューヨークのアポロ・シアターで、東洋人初の単独ライブもしましたね」
その一世風靡から、音楽ユニット「一世風靡セピア」が誕生。小木はリーダーだった。
「メンバーは個性的で、野放し状態(笑)。でも『打ち合わせのときは酒を飲まない』など、ルールはありました。酒が入ると揉め事が起きるというのもありましたけど、酒の力を借りないと何も言えない人間には、なりたくなかった」
卒団後、俳優活動を本格化。『裸足のシンデレラ』(NHK、1988年)では、沢口靖子、黒木瞳と共演した。
「落ち目のジャズシンガー役でした。撮影前に、『ピアノの弾き語りをお願いします』と楽譜を渡され『え? 聞いてないよ』でした(苦笑)。
『カラオケも用意しているから、弾くふりでもいい』と言われましたけど、それはカッコ悪い。必死に覚えて、撮影に間に合いました。そんな経験したことがない段取りもあったりして、がぜん、役者という仕事に興味が湧きました」
小木にとって忘れられない作品が『月はどっちに出ている』(崔洋一監督、1993年)だ。
「ずっとどうしても、『一世風靡の小木だ』と先入感ありきで見られていました。それがこの作品で、崔監督が役者に求める『心の中をさらけ出す演技』が、できたように思うんです」
ずっと、色眼鏡で見られることへのもどかしさを払拭しようと気負っていた。たとえば柳葉とは、『踊る大捜査線』シリーズ(フジテレビ系)などで何度も共演しているが、楽屋を行き来することはなかったという。
「僕は役者を志したとき、一世風靡のイメージがないところからスタートしたかったんです。だから柳葉とは、あえて距離をおいていました。今でも、目で挨拶をする程度です」