もともと、「国立大を出て官僚になるのが希望」だった堺だが、早稲田大学出身の伊藤氏の影響もあり、同大の第一文学部に入学。名だたる演劇人を輩出した「演劇研究会」で、過酷な稽古に打ち込んだ。
「当時は、まだ演劇で食っていくつもりはなかったと思います。でも、演劇にのめり込んだせいで、大学で自分の希望する専修に進めなくなったそうです」(前出の友人)
大学3年の春に、突如として大学を中退。家族には、事後報告だった。
「実家からは、勘当状態が続きました。テレビの仕事もなく、友人に奢ってもらい、食いつなぐ時期もありました」(同前)
だが、この時期に堺が、“令和の名優” となるための素質を磨いていたのは間違いない。濱崎氏が語る。
「彼が宮崎に戻ってきたときのことです。飲み会の席で、ただ脚を組んで座っている姿に、ゾクッとしてね。それまで感じたことのない “オーラ” を、初めて感じたの」
そしてついに堺は2000年、NHK連続テレビ小説『オードリー』に出演し、全国区で知られるようになる。27歳のときだった。
「その当時、宮崎市内で飲んでいたら、堺くんの父親から『息子が、NHKの朝ドラに出ているんです。観てくれなくては』と自慢されたんです。
『観てくれなくては』という言葉には、“早稲田の文学部という就職が難しいところにやったのは先生のせいだから、責任を取って見届けてくれ” という意味もあったのでしょうね(笑)」(伊藤氏)
両親からの連絡で、堺の勘当は解け、のちに東京へ両親を呼び寄せるほど、“芸能人” として成功を収めた。だが彼は、故郷を見捨てたわけではない。ここから、堺の「恩返し」が始まるのだ。
「2000年ごろ一緒に飲んだとき、『私の宮崎の劇団が、2005年に20周年を迎えるの。そのとき一緒に、芝居をやりたいな』と言ったら、『やりましょう』と快諾してくれたんです。でも2004年に、『新選組!』(NHK)が大ブレイクして。忙しいから無理だろうな、と諦めていたんです。
ところが彼は、『僕は、約束したならやります。来年の夏、1カ月空けておきました』と言ってくれたんです」(濱崎氏)
だが、所属事務所にとっては、まさに稼ぎ時。出演依頼が殺到していたはずだ。
「堺くんは、大切な時期なのに事務所も通さず、個人で出演してくれたんですよ。しかも堺くんのファンも、宮崎まで来てくれました」
まさに、リアル『半沢直樹』ばりに、情に厚い男だったのだ。前出の同級生もまた、堺の “恩返し” ぶりを語る。
「2010年に、宮崎で家畜の口蹄疫が蔓延したときも、心配して帰ってきてくれました。いまでも定期的に帰ってくるのは、故郷の宮崎を大切にしてくれているからだと思います」
受けた恩は、“倍返し” いや “100倍返し” する男、堺雅人。放送中のドラマでは、今後どんな “返し” を披露するのか、楽しみだ。
(週刊FLASH 2020年8月18・25日号)