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オンリーワンの男たち/バレエ界を牽引する男、若手育成こそわが使命

エンタメ・アイドルFLASH編集部
記事投稿日:2020.08.21 16:00 最終更新日:2020.08.21 16:00

オンリーワンの男たち/バレエ界を牽引する男、若手育成こそわが使命

 

 新型コロナの影響で数多くの公演が中止されるなか、ひときわ「残念」という声が高かったのが、5月に予定されていた松山バレエ団による『新「白鳥の湖」』だった。

 

 日本でいちばん有名な71歳のバレリーナ・森下洋子と、国際的に活躍する舞踊家・振付家の堀内充が初共演することで、大きな話題となっていたからだ。

 

 

 今年56歳を迎えた堀内は、日本のバレエ界を長く牽引してきたベテランである。大阪芸術大学教授、玉川大学藝術学部非常勤講師を務め、各地でバレエを教えている。もちろんダンサーとしても現役で、「Ballet Collection」という自主公演を8年続けている。

 

「ダンサーたちの守護神」ともいわれる堀内は、いったいどんな人生を歩んできたのか。

 

 堀内は、1964年、バレエ団を主催していた両親、堀内完・秀子の次男として、東京・西麻布に生まれた。双子で、兄はセントルイス・バレエ団の芸術監督・堀内元である。 

 

 6歳の頃、父がバレエスタジオをオープン。兄とともに母親のバレエクラスに参加した。さぞ厳しく指導されたかと思いきや、「まったくそんなことはなくて、ひたすら楽しかった。踊りの上手下手はなにも言われなかった。音楽に乗って体を動かす喜び。母は僕らにバレエの厳しさではなく、楽しさだけを教えてくれた」という。

 

 バレエだけでなく、ミュージカルの仕事など多忙を極めていた父とは、ほとんど顔を合わすことがなかった。しかし、中学生になると、「こいつらモノになるかな? ということだったんでしょう。遠回しにバレエダンサーとしての将来を見込んだ教育が始まったと思います」と笑う。

 

 中学生のとき、すでにバレエは一つの芸術として、深い知識と鍛錬が必要であり、それがなければ達成できないと理解していた。

 

「『将来はバレエダンサー』という期待は、たしかに背負わされていたと思います。そのときは、バレエで将来自分が食べていけるのかなんて考えなかった。ひたすら自分は『バレエダンサーになる』と思っていました」
 

 他の職業に就くことなど考えもしなかった。中学・高校時代、帰宅すればすぐ制服を脱いでレッスンした。14歳のとき、父の振付けで初めて舞台に立った。緊張もなく、舞台の楽しさに魅せられた。

 

 1981年、17歳だった堀内は、権威ある「モスクワ国際バレエコンクール」に出場した。

 

「もう予選から絶好調(笑)。当時は情報もなく、未知のモスクワへ乗り込んでいく感じだったけど、あのボリショイ劇場で踊れるという喜びに興奮しっぱなし。若かったということもありますけど」

 

 結果は銅賞。1983年には2度目のローザンヌ国際舞踊コンクールに出場し、ローザンヌ賞を獲得。NYのスクールオブ・アメリカンバレエへの3年間の留学が決まった。19歳だった。

 

 日本では「恵まれた温室育ち」だったが、NYでは「ローザンヌ賞の堀内なんて誰も知らない(笑)。それまでの自分には、少しタレント的な浮かれたところがあったと思う。賞を取って日本では取材やテレビ出演でチヤホヤされて。それが見事に全部打ち消されましたね」

 

 厳しい戦いが始まった。いちばんショックだったのは、初年度の学校公演の配役に自分の名前がなかったことだ。

 

「学校公演に絶対出るものだと思っていたんです。ところが配役表に名前がない。実力的に踊れると思っていたし、配役表が間違っていると、2カ月間も信じなかった(笑)。ところが、いざ練習が始まっても呼ばれない。ものすごく落ち込んだし、なにが問題だったのか、必死に考えました」

 

 なぜ選ばれなかったのだろうか?

 

「思えば、教師に対する忠誠心、積極的に学ぶ姿勢が足りなかった。自分はこんなに踊れるんだとアピールばかりしていて、学校が教えるメソッドに自ら近づいていなかった」

 

 落ち込むが、「来年頑張ろう」と真摯にレッスンに打ち込んだ。すると校長が「充は最近姿勢が見えてきた」と配役に加えてくれた。しかし、選ばれた喜びか、リハーサルで頑張りすぎて肉離れを起こしてしまう。

 

「自分が足を痛めてうずくまった瞬間、仲間の男の子たちが『大丈夫か?』と声をかけてくれた。みんなの優しさに感動したし、僕にも友達ができたと思いきや、次の瞬間にはみんなが僕のバリエーションを踊って教師にアピールしていた(笑)。ああこれが世界なんだ、競争社会なんだとつくづく思いました。この日の夜から治療に走り回りました」

 

 治療の甲斐あって公演で踊ることができたが、2年目も学校公演には選ばれなかった。小柄で体格的にもハンデがあり、もうNYにいたくない……絶望的な気持ちで一時帰国した堀内を待っていたのは、両親の冷たい視線と仲間や恩師の叱咤だった。

 

「日本に帰ってきて、もう戻りたくないと逃げていたんです。そんな自分に対して、両親も冷ややかに見ていましたね。もちろん愛情はあります。ただ甘えるなという視線。会いに行った恩師も『とっとと帰れ! 厳しいのが当たり前だろう』と。それで吹っ切れました」

 

 そして3年目。何があってもバレエを一生続けていく覚悟ができていた堀内は、全作品に選ばれた。学びきったこの3年間は、達成感とともに、バレエ人生に大きな実りをもたらした。

 

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