東京・神田の古いビルの2階。そこには夜な夜な紳士淑女が集まり、うんちくを披露しあう歌謡曲バーがあるという。今宵も有線から、あの名曲が流れてきた。
お客さん:お、このイントロは、中村あゆみの『翼の折れたエンジェル』。キュートな笑顔とハスキーボイスのギャップがよかったよねえ。
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マスター:1985年、サードシングルとして発売されて大ヒット、65万枚を売り上げた。デビューからたった8カ月で、ロック系アイドルの頂点に立ったんだ。
お客さん:日清カップヌードルのCMにも起用されたよね。
マスター:そうそう。ただ、中村あゆみはもともと実業家になるのが夢で、明大中野高校夜間部に通っていたときも、昼間は毛皮や貴金属を販売する会社に勤めていた。販売成績はトップクラスだったそうだよ。
お客さん:歌手になるつもりはなかったんだ。
マスター:そう。「もし曲が売れたら、将来会社を興すときの資金になりそう」くらいの気持ちだったという。『翼の折れたエンジェル』がヒットしたときも、曲のよさがわからないから、何の感情もないまま歌っていたんだって。
お客さん:意外だなあ……。僕らのハートにはビンビンに響いていたのに。
マスター:そして時は流れる。1998年以降、出産などで音楽活動を一時休止していたんだけど、離婚してシングルマザーになり、2004年に復帰するんだ。
お客さん:シングルマザーは大変だよな。
マスター:そのときはシンガーとして路上で歌ってでも子供を育てていく覚悟ができていた。そこで、「いま、中村あゆみを求めている層はどこにいる?」とマネージャーと相談したときに浮かんだのがイオンだった。
お客さん:イオンってあのショッピングモールのイオン?
マスター:そう、今でこそ多くのアーティストが活動の場にしているけど、その走りだったという。生の観客の前で歌うことで、デビュー当時の環境がいかに恵まれていたかを知り、はじめて歌を歌う喜び、ありがたみがわかったという。
お客さん:経験を重ねるごとに、考え方も気持ちも変わっていくんだなあ。
おっ、次の曲は……。
文/安野智彦
『グッド!モーニング』(テレビ朝日系)などを担当する放送作家。神田で「80年代酒場 部室」を開業中
参考:BS12『スナック胸キュン1000%』(2020年8月30日)/『昭和40年男』2011年春号(クレタパブリッシング)