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「小室哲哉のプロデュース力」なぜ無名の新人をヒット歌手にできたのか
エンタメ・アイドルFLASH編集部
記事投稿日:2021.03.24 11:00 最終更新日:2021.03.24 11:00
trf、安室奈美恵、篠原涼子、華原朋美、鈴木あみ、ダウンタウン浜田雅功……。
1990年代、TKこと小室哲哉にプロデュースされたアーティストがヒットチャートを席巻した。
それまでCDセールス10万枚がヒットの目安とされていた音楽業界で、小室作品は100万枚突破が当たり前。150万、200万枚突破と次々に記録を塗り替えていった。
平成の音楽シーンにおいて、小室哲哉はなぜ「伝説」になったのか。
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多くの音楽関係者は揃って「作詞、作曲、編曲、セールスプロモーションのすべてを自身で手がける、初めての『総合プロデューサー』になったからです」と言う。
曲作り、CDセールス、番組出演交渉など、ほとんどにおいて分業制が当たり前だった音楽業界で、小室は本人による「一貫制作・一貫演出」を確立したのである。
加えるなら、制作者の小室自身もミュージシャンとしてユニットを結成、多くのメディアに露出することでプロデュースしたアーティストの「宣伝効果」を高めたことも特筆すべきことである。
高校卒業後の1977年、シンセサイザーなどを駆使して本格的に音楽活動を始めた小室はずっと“専業作曲家”だった。
アニメや映画などの主題歌の作曲も手がけた小室が、「総合プロデューサー」になるターニングポイントを迎えたのはいつだったのか。
小室と30年来のつき合いがあり、音楽界の歴史や交友などを綴った『調子悪くてあたりまえ・近田春夫自伝』を2021年1月に上梓した、音楽家の近田春夫氏が興味深い分析をしてくれた。
「1986年に提供した渡辺美里の『My Revolution』以前と1993年に楽曲提供を始めたtrf(現TRF)以後。ここにヒントがあります。
『My~』以前の小室氏は宇都宮隆氏、木根尚登氏とともにTMネットワークで活動していましたが、そのころは作曲だけをしていて、『My~』も作曲のみでした。
しかし、当時ミュージック界で無名だったエイベックスを率いる松浦勝人氏と出会い、そのころから作詞もするようになりました。
そして、trfの2曲めのシングル『EZ DO DANCE』(1993年)が大ヒット。ここから小室氏の作品はメロディより歌詞のメッセージ性が強くなっていきました。作風も大きく変わりました」
trfは小室の発想で誕生したユニットである。
「SAMさんなどのダンサーが主役で、ボーカルのYU-KIさんやDJのDJ KOOさんが後ろにいる、これまでのユニットとは違う不思議な組み合わせでした。
この構成はダンスシーンに精通していた小室さんの提案で、自らSAMさんを口説いたそうです」(当時を知る音楽雑誌編集者)
■小室プロデュース曲にある「等身大の世界」
近田氏が指摘した「強くなった歌詞のメッセージ性」。その歌詞にこそ小室プロデュースの神髄があるという。
女性ファンが多いことで知られる小室の曲だが、青山学院大学在学中の1998年に「小室ファミリー」として『BAD LUCK ON LOVE~BLUES ON LIFE~』でデビュー、同年の日本レコード大賞新人賞を受賞したtohkoもティーンのころに、歌詞に共感した一人。
「私の曲にも街中の雑踏、歩道橋、信号など日常で見たり感じたりするワードがあって、10代、20代の女のコが自分と等身大の世界観を共有できるように描かれていると思いました。
当時はカラオケがブームだったので、みんな夢中になって小室さんの曲を歌い、少しでも上手になろうと必死になりました」と振り返る。
女性が歌詞に共感すること。小室はそこを計算していた。このことからも、小室が「女性アイドルのアーティスト化」を手がけたことはうなずける。
1994年に東京パフォーマンスドールの篠原涼子をソロとしてプロデュース。
『恋しさと せつなさと 心強さと』は、日本の女性ソロ歌手として初めてCDシングルの売り上げが200万枚を突破した。
1995年には、グラビアアイドルだった華原朋美、ダンスパフォーマンスグループ「スーパーモンキーズ」の安室奈美恵、1998年には素人オーディション番組で優勝した鈴木あみなどを次々とプロデュース。「TKブーム」を巻き起こした。
「安室は “アムラー”、華原は “カハラー” と呼ばれるファンを生み、ファッションリーダーになりました。仕掛人は小室さんです」(女性誌編集者)
アイドルをアーティストにするため、小室はどのようなプロデュースをしたのか。こだわったのが「芸名」だ。