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日本初のワイドショー『モーニングショー』が始まったのは4月1日だった

エンタメ・アイドルFLASH編集部
記事投稿日:2021.04.01 06:00 最終更新日:2021.04.04 17:51

日本初のワイドショー『モーニングショー』が始まったのは4月1日だった

写真・朝日新聞

 

 1964年4月1日、日本において初めてのワイドショーとされる『木島則夫モーニングショー』が、NETテレビ(現・テレビ朝日)で始まった。

 

 もともとNHKの報道アナウンサーをつとめていた木島が、突如民放に登場したことで、当時は大きな話題となった。放送開始日が4月1日だったことから、冗談ではないのかという声が放送局に集まるほどだった。

 

 

 収録放送が主流になりつつあった当時、スタジオから生中継する新しいスタイルを打ち出した番組となる。

 

 芸能リポーターの川内天子さんが、こう語る。

 

「それまでの真面目一辺倒なアナウンサーと違い、木島さんは喜怒哀楽をはっきり表現する、新しいタイプの司会者でした。ゲストの話に涙する姿から『泣きの木島』と呼ばれ、お茶の間に受け入れられていきました。

 

 全国の主婦たちが夫を送り出した後、テレビに釘付けになってしまう番組だったと、業界の先輩方から聞いています。

 

 アシスタントとして、若者代表ポジションの栗原玲児さん、女性司会者の井上加寿子さんが加わったのも、人気の理由の一つだったんでしょう。お2人が木島さんをはさんで、各々の意見を交えながら進行するスタイルは、今のワイドショーに通じるところがありますね」

 

 しかし、ワイドショー司会者のハードスケジュールぶりは、今も昔も変わらないようだ。放送開始から2年後、アシスタントの栗原が「心身の疲労」を理由に途中降板。当時は政治的な圧力や、木島との不仲説まで報じられたが、真偽のほどは定かでない。

 

 一方、司会の木島も、疲労を理由に4年で降板してしまう。当時『女性自身』の取材に対し、木島は「元気なときならつぎつぎに片づけていた問題も、今は一日のばしになったり、朝、床を離れるときなんか、もう少し、もう一分というふうに起きるのがつらくなってきたのです」(1968年2月5日号)と語っていた。

 

 その後、長谷川肇、溝口泰男……と司会者が交代し、現在の羽鳥慎一アナウンサーにつながっていく。番組はワイドショーの草分け的な存在だったことから、現在活躍するリポーターたちを育てる場としても機能していた。

 

 実は、川内さんがリポーターとして初めてテレビに出演したのも『モーニングショー』だった。

 

「私が初めて番組でリポートしたのは、木島さんから司会者が何度か代わって、ジャーナリストの江森陽弘さんになられた頃でした。歴史ある番組のオーディションに受かったことは飛び上がるほど嬉しかったんですが、まさかの一発目から生中継の現場入り。

 

 広島大学院の学生さんの間で起きた事件を報じたんですが、当然失敗してしまって(笑)。帰りの飛行機ではずいぶんふさぎこみました。

 

 けれど、会社に戻るなり、プロデューサーさんが一言『どんなニュースであっても、絶対に普通の声で話せ』と教えてくれました。

 

 暗い声では、視聴者の人たちが嫌な気分になって聞いていられない。だから、どんなに暗い話でも、普通の声で報じるんだと、リポーターとして大事なことを教わった日でした。

 

 今のテレビ業界は、すでに力のあるリポーターさんを起用する番組が多いのですが、当時の『モーニングショー』は、人を育てようとするスタッフさんが揃っていたように思います。

 

 その後も出演を重ねるなかで、ダメなところをていねいに教えてくれたから、いまの私があります。『モーニングショー』に出られたことは、私の一生の財産ですね」

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