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40代でブレイク「TOKYO COOL」 千鳥、笑い飯らとしのぎ削ったおっさん芸人が25年めにして開花!
エンタメ・アイドルFLASH編集部
記事投稿日:2021.06.26 11:00 最終更新日:2021.06.26 11:00
『有田ジェネレーション』(TBS系)や『そろそろにちようチャップリン』(テレビ東京系)などのネタ番組で、爪痕を残しまくる元気なおっさん芸人たち。2015年の結成時は「全力じじぃ」というコンビ名だったが、2019年に『有ジェネ』の番組内企画で改名した「TOKYO COOL」は、ともに芸歴25年近いベテラン同士のコンビだ。
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ボケのカンカン(44)とツッコミの前すすむ(45)。1990年代後半の大阪インディーズシーンは、現在大活躍する芸人たちの原点。そのうねりの中に、彼らもいたのだ。
前すすむ(以下、前)「もともとは大阪吉本NSC15期で、卒業して『二丁目劇場』(心斎橋二丁目劇場。1986~1999年まで吉本興業が運営していた)に行きながら、同時に千鳥や笑い飯と一緒に、大阪のインディーズで自主ライブやってたんです。『魚群』っていうイベントを企画していました」
『魚群』は1996年ごろから月2回ほどおこなわれていた、伝説的なインディーズライブ。大阪の当時のNSC生や地下芸人が群雄割拠していた場であり、笑い飯や千鳥、ヘッドライト、ソラシドなどが出演していた。
前「西田(幸治)は同期ですからね。そのころ、西田はまだ笑い飯じゃなくて別のコンビを組んでいて、哲夫も別のコンビ。大悟はピンでやってましたね。ノブはサラリーマンで、大阪に出てくるのを大悟が待っていたころ。チャンカワイも高校生コンビで出入りしてました。僕はライブの立ち上げからいたんですが、NSCを卒業して吉本に完全に所属してたわけじゃなかったんです。オーディションライブで勝ち残れなくて……。それで東京に出ちゃったんですよね」
とにかく売れたい、事務所に入りたい若手がギラギラしていた当時の地下芸人界。
前「東京に殴り込むのって流行ってたんですよ。はよ、売れたいじゃないですか。大阪でもライブの成績いいし、ウケてるし、自信もあるし……大阪に長くいるより、東京で勝負しようと。で、出てきて今23年くらい経ってるんですけど、大阪に残った“魚群”の仲間たちが、こんなに全員売れるとは思いもしませんでした(爆笑)。痛恨のミスですよ!」
カンカン(以下、カン)「僕も同じく、大阪から売れたくて上京してきた口ですね。もともとは、吉本のアマチュアライブに出て『二丁目劇場』のレギュラーにはなれたけど解散。そこで僕は一度引退して、ほぼ社員状態でラーメン店のバイトやってたんですけど、福岡吉本の劇場オーディションにピンで出たら優勝しちゃった。東京行きたいんですって話をしたら、東京NSCの電話番号を教えられました(笑)。
いきなり事務所所属じゃないのは嫌やなと思って、そのまま東京に来て浅井企画に入って、ひばりプロ、フリーと渡り歩いて、2005年にソニー・ミュージック・アーティスツ(SMA)にコンビで入り、1年でピンに戻りました」
前「僕は吉本スタートで浅井からワタナベエンターテインメントに行って、マセキ芸能社、最後がSMAですね。これだけ動いている芸人は珍しいでしょうね(笑)」
大阪からお笑いで売れるという夢を抱えて、上京した2人だが、世間の風は当然のごとく冷たかった。
前「東京は大阪とは仕事の量が違うって聞いてたんで、すぐ売れると思ったんですけどね。浅井企画に流れ星☆が入ってきたのと同時くらいで、『事務所の売り方が変わる』と懸念して、浅井の所属芸人がみんなパッとどこか行きました(笑)。彼らは当時、本当に人気がすごかったんで、このままじゃ吉本のときと同じように埋もれるかもしれんと思って、僕もやめちゃったんです。
今はね、流れ星☆とも仲いいですけど、当時は本当に嫌いだった(爆笑)。なんやねん、アイドルみたいなって。こっちはむちゃくちゃ尖って、シュールなコントやってましたからね。こじらせまくって、すねたんでしょうね
解散して一人で移籍したワタナベも5カ月くらいしかいなかったし、相方も通算で10人近く変えてます。だから石の上にも3年というか、そういう堪え性が足らんかったのかなと思って、次に入ったマセキ芸能社には10年いたんです。でも、トリオの相方がどっちもやめて実家帰っちゃって(笑)、解散というより引退ですわ。年齢も年齢だし……36歳くらい。仲のいい芸人みんなやめちゃって、僕らしか残らなかったんです(笑)」
カン「みんなおもしろかったけど、限界やって。借金とか結婚、いろいろありますよね。僕らは芸人引退の残り組なんですよ。ようやくコンビを組んだのが39歳ですからね」