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石原良純を育てた裕次郎の助言、つかこうへいの教え「人生にも通ずる言葉だと思う」

エンタメ・アイドル 投稿日:2021.08.13 16:00FLASH編集部

石原良純を育てた裕次郎の助言、つかこうへいの教え「人生にも通ずる言葉だと思う」

東京・世田谷「イルピアット カチャトラ」にて

 

 過激な発言でときに世間を騒がせた石原慎太郎氏。この強烈な個性を持つ父を、石原良純はどう見ているのか? 聞くと答えは明快。「父? 変人で天才。そして自己中心的ですよ」と笑う。

 

「そんな父ですから僕には『へんな人探知機』が備わっているんです。そのことに気づいたのは小学3年生。同級生に作家の阿川弘之さんの息子さんがいらしたんです。阿川佐和子さんの弟。阿川君の家に遊びに行ったとき弘之さんとお会いしたら『うちの父と同じような人間が、この世の中にいたんだ』と驚いちゃって。それから『ここにも、あそこにもへんな人がいる』と気づくようになったんです(笑)」

 

 

 良純と訪れたのは、多くの芸能人やスポーツ選手が味と雰囲気に魅了されて通うイタリア料理店「イルピアット カチャトラ」。壁には余白がないほどサインが書かれている。

 

「ここは俳優の江守徹さんと番組でご一緒したとき、江守さんのお気に入りの店としてロケに来たんです。16年くらい前かなあ。それからは家族でお邪魔しています。珍しい食材が多いから毎回いろいろな味が楽しめますが、コロナ禍の今はテークアウト。料理ができたころに、僕自身がお店に取りに行きます。ウーバーイーツの頼み方がわからないから(笑)」

 

 そう言って大きな琉球ロイヤルポークを頬張る。一日10km走り、石原家のDNAで酒も愛する59歳は健啖家だ。

 

■石原裕次郎氏の助言は「時間」と「挨拶」

 

 良純が芸能界デビューしたのは慶應義塾大学2年生のとき。叔父である石原裕次郎氏の入院がきっかけだった。

 

「叔父をお見舞いする僕の姿がテレビに映り、たまたま映画関係者の目に留まったんです。だから、今でも『つくづく人生は偶然と出会いの連続だな』と思いますね。だって叔父が倒れていなかったら僕がお見舞いすることもなかったし、入院が10年前だったら僕は小学生。映画関係者の目に留まることもなかったから」

 

 デビュー作は『凶弾』(1982年)。主演だった。そして石原プロモーションに所属する。教育係は舘ひろしだった。

 

「社長でもある叔父のアドバイスは『時間を守れ』『きちんと挨拶をしろ』の2つ。舘さんとは……33歳と21歳のいい大人だったから教育といってもねえ。何を教育されたか覚えていないよ(笑)。

 

 ただ、先輩方と一緒にいた時間はとても濃密な経験として心に残っています。休みになればハワイ、ゴルフ。オーバーではなく365日一緒。そのなかで俳優として、男としての “生きざま” を学びました。

 

 それとメシは大量に食わされた。ロケで旅館に泊まったりすると、食べ切れないほどの料理を注文するんですよ。それで最後は『おい良純、ありがたくいただけ。残すなよ』となるわけです」

 

 そんな状況だったが良純は居心地のよさも感じていた。

 

「子分体質なんです。舘さん、神田(正輝)さんに『おい、行くぞ』と言われると『はい』とついていく。中村雅俊さんにも『お前は大学の後輩だから』とかわいがっていただいて。年上の人たちと過ごすほうが僕は居心地がいいんです」

 

 だが、5年後に良純は石原プロモーションを去る。

 

「石原プロは製作会社なので個々の俳優のマネジメントはしないんです。芸能活動の幅を広げたかった僕は退社を決意。社長の渡(哲也)さんは『おう、そうか。頑張れよ』と優しく送り出してくれました。独立のゴタゴタなんて無縁の会社ですから」

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