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クイーンを育てた日本人ファンたち…知られざる「ボヘミアン・ラプソディ」ブレイク前夜

エンタメ・アイドルFLASH編集部
記事投稿日:2021.08.31 20:00 最終更新日:2021.08.31 20:00

クイーンを育てた日本人ファンたち…知られざる「ボヘミアン・ラプソディ」ブレイク前夜

クイーン(写真:Press Association/アフロ)

 

 1999年、イギリスの音楽特別番組『ミュージック・オブ・ザ・ミレニアム』にて「過去1000年でイギリス人が選んだ最も重要な曲」が選ばれた。その第1位を獲得したのがクイーンの「ボヘミアン・ラプソディ」である。ジョン・レノンの「イマジン」とビートルズの「ヘイ・ジュード」を抑えたというと、そのすごさがわかるのではないだろうか。

 

 オリジナルメンバーであるブライアン・メイ、ロジャー・テイラー、フレディ・マーキュリーが1970年に集まり、翌年、オーディションにてジョン・ディーコンが加入してクイーンが結成された。その後メンバーの入れ替えは一切なしという、ロックバンドとしては貴重なスタイルの始まりとなる。

 

 

 1973年にファーストアルバム『戦慄の王女』を発表。1974年には2枚目のアルバム『クイーンII』、立て続けに3枚目の『シアー・ハート・アタック』をリリースし、そこからのシングル「キラー・クイーン」がバンドとしての初ブレイクとなる。翌1975年に4枚目のアルバム『オペラ座の夜』を発表、シングルカットされた「ボヘミアン・ラプソディ」が世界的な大ヒットとなる。

 

 こうやって書くと順風満帆なようにも聞こえるが、デビュー当初はまったくの鳴かず飛ばず。批評家にも、商業的であるとか何かの二番煎じだとか酷評される時期が長く続いた。

 

 そもそも、Queenという名前自体がスラングで「ゲイ、おかま」という意味があり、最初から「イロモノ扱い」される要因はあった。バンド名はフレディの命名によるもので、彼の「女王」への愛着と、ものものしく、華やかでよいとの理由に基づいたものではあったが、他メンバーはあまり乗り気でなかったのもうなずける。

 

 金銭的にも長いこと受難が続き、「ボヘミアン・ラプソディ」がヒットした後もフレディとロジャーは以前からの生業(なりわい)である古着屋を続けざるを得なかった。最初に契約した制作会社がブラック企業のようなもので、契約条件が劣悪だったという。

 

「ボヘミアン・ラプソディ」はイギリスでは9週連続No.1という快挙を成し遂げる。もっとも、批評家たちにはあいかわらず受けが悪く、爆発的に増えた新しいファンが支えた大ヒットだった。その後アメリカでも大成功をおさめ、次々とヒット曲を生み出すグループに成長を遂げる。

 

 デビュー当時から酷評続きだったのは本国イギリスもアメリカも同様だったが、そんな彼らをいち早く発見し、その後長きにわたって応援したのが日本のファンだった。まだ「キラー・クイーン」で国際的に名が知られる前のことである。

 

 このあたりのいきさつは元『ミュージック・ライフ』誌の名物編集長・東郷かおる子氏のお話に詳しい(『クイーン オブ ザ デイ〜クイーンと過ごした輝ける日々〜』〈扶桑社〉など)。

 

 1970年代前半、まだ本国でもまったくといっていいほど知名度のなかったクイーンをいち早く誌面で紹介、本国ばかりか世界に先駆けて日本での人気に火をつけた第一人者としてもつとに有名である。

 

 当時まだ駆け出しの編集者だった東郷氏は、送られてくる多くの資料の中からある日、気になる写真を発見した。ちょっと可愛いじゃない? ――それがデビューしたばかりのクイーンだった。曲を聴いてみてこれはいける! と直感、試しに小さなグラビアを掲載してみたところ、たちまち大きな反響を得たそうだ。

 

 熱心なファンに応えるかのような、クイーンの日本びいきもよく知られている。フレディはお忍びで何度も来日し、日本の伝統工芸品や美術品の膨大なコレクションを誇り、ロンドンの邸宅「ガーデン・ロッジ」には日本間や日本庭園もあった。

 

「手をとりあって、このまま行こう、愛する人よ」と日本語で歌われる「手をとりあって」は日本のファンにとって特別な曲である。

 

 フレディ亡き後アダム・ランバートと共に「新生クイーン」としてツアーで世界を回るブライアンとロジャーは、2016年、実に31年ぶりに日本武道館に帰ってきた。初来日から数えると40年を超える月日が経つ。初来日の際のファンの熱狂的な歓迎ぶりが今でも忘れられない、日本は特別だと彼らは語る。

 

 本国でも無名に近かった2年目の新人バンドを、1000人を超えるファンが羽田空港で出迎え、連日の公演となったのである。月日は経ったが当時の記憶をたどるほどに強い印象を残した経験だったのだ。

 

『ミュージック・ライフ』編集部には「メンバーの誕生日はいつか、好きな色はなにか」などと尋ねてくるファンからの電話が絶えなかったそうだ。クイーンは『セブンティーン』や『明星』といった一般雑誌にも登場し、日本でもアイドルとしての存在感を強めていく。

 

 また、東郷氏による、クイーンと少女漫画との相性のよさについての指摘は特筆に値する。当時、クイーンに限らず、海外アーティストが登場する少女漫画が数多く生まれた。池田理代子や青池保子、萩尾望都、竹宮惠子といった大御所だけでなく、今でいう「コミケ」に自作を持ち寄るアマチュア作家たちもその中に含まれる。

 

 メンバー同士の恋愛や、ブライアンが高校の物理の先生で自分たちの学校にやってくる(どうしよう!)といった、他愛ない(荒唐無稽?)設定の物語である。

 

 絵柄も少女漫画らしい、可愛らしい雰囲気のものが多い。ただ、どぎつくはないのだが、ちょっといけないものを見たいという欲望、ほんの少し背徳的な、ちょっとやばいなという妄想をかきたてるものがその底にある――これは間違いなく、今でいう「萌え・腐女子」文化に通ずるものだろう。

 

 その後、形を変えながら引き継がれている日本特有のオタク文化の萌芽という視点から見ても興味深い現象である。

 

 

 以上、菅原裕子氏の新刊『「ボヘミアン・ラプソディ」の謎を解く “カミングアウト・ソング” 説の真相』(光文社新書)をもとに再構成しました。洋楽ファンの映画研究者が膨大な文献をリサーチし、フレディの残した謎を解明します。

 

●『「ボヘミアン・ラプソディ」の謎を解く』詳細はこちら

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