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野々村真「芸がない『芸NO人』の僕を、タモリさんが育ててくれた」

エンタメ・アイドルFLASH編集部
記事投稿日:2021.09.05 11:00 最終更新日:2021.09.05 11:00

野々村真「芸がない『芸NO人』の僕を、タモリさんが育ててくれた」

西麻布「博多麺房 赤のれん 西麻布本店」にて

 

 この日、野々村真が訪れたのは、博多とんこつラーメンの老舗「博多麺房 赤のれん 西麻布本店」。1946年に福岡市箱崎で創業した本店で修業した先代が、1978年に暖簾分けを許され開店した人気店だ。

 

「事務所のマネージャーで九州出身の方がいて、初めて連れて来てもらったのは『いいとも』に出始めたころでした。まだとんこつラーメンは珍しく、衝撃的な味。替え玉を6玉お願いしたらスープがなくなった思い出があります。

 

 

 久しぶりにお邪魔しましたが、やっぱり美味しいですね。こってりしているけど、しつこくない。絶品です。仕事帰りに立ち寄ることもありますが、そのときは必ず妻の俊恵に電話をして、夕食の用意をしていないことを確認します」

 

 こう話した野々村は、箸を置き、デビューからこれまでの芸能生活を語った。

 

■早実・荒木を見て挫折「竹の子族」に

 

 中学生のとき、ピッチャーでクリーンアップだった野々村はプロ野球選手を夢見ていた。実家の青果店が後楽園球場に近かったこともあり、大のジャイアンツファン。高校の途中までは甲子園を目指して猛練習をしていた。

 

「実力もないのに調子に乗っていただけです。同年代に早稲田実業の荒木大輔選手がいました。彼を見たときに『全国にはとんでもないやつがいるもんだ』と思い、夢は絶たれて挫折をしました」

 

 そんな失意の野々村は竹の子族と出会う。これが芸能界に入るきっかけになるとは本人は知る由もなかった。

 

「野球部をやめたあと、友人に誘われて原宿に見に行ったんです。最初は『なんでこの人たちは奇妙な格好をして人前で踊ってるんだ?』と思いましたけど、僕も元来が目立ちたがり屋なので参加しました。そうしたら楽しくて」

 

 そこでのちの「劇男一世風靡」の母体である「劇男零心会」のメンバーにスカウトされる。

 

「再び体育会系に戻り、肉体を酷使したトレーニングや路上パフォーマンスをしました。男だけの世界は懐かしくて楽しかったです。その路上パフォーマンスをフジテレビの横澤彪プロデューサーが見ていらして『いいとも青年隊のオーディションがあるから』と声をかけてくださってメンバー全員で受けに行きました」

 

 その面接で、先輩メンバーたちが驚きの行動に……。

 

「面接するディレクターさんに『俺らはよ、こんなパフォーマンス集団がいるってことを知ってもらえればそれでいいんですよ』とタバコを吸い始めたんです。しかも皆さんリーゼント。僕は『これで落ちた』と思いました(笑)」

 

 しかし、オーディション後の食事会で先輩から意外な言葉を聞いた。

 

「『これで真は受かった』と言うんです。内心『めちゃくちゃにしておいて何を言ってんだ?』と思いましたけど『俺たちは真の真面目さを引き立てるために演出したんだ』と。その甲斐があったのかなかったのかわかりませんけど合格しました。先輩方には本当に感謝ですよね(笑)」

 

『森田一義アワー 笑っていいとも!』(1982年〜2014年、フジテレビ系)の初代いいとも青年隊のメンバーになったときは17歳。「毎日がドキドキの連続でした」と振り返る。

 

「それまでの日常生活では経験のないことばかりでしたから。だけど果敢に挑戦できました。若手の僕がドジをしても怒られませんし、そもそも僕自身、何が失敗なのかわかっていなかったから(笑)。

 

 3人いた青年隊メンバーの先輩お二方は芸歴もほぼ同じだからなのかライバル同士で、僕はその2人の間を取り持つことが大変でした」と苦笑しながら続けた。

 

「皆さんにはとてもかわいがっていただきました。お昼には『真、牛丼を買ってきてくれ』と頼まれるんですが、そのとき『お前のぶんも買ってこいよ』と必ずご馳走してくれました。

 

 タモリさんにも本当にお世話になりました。世間知らずでトンチンカンだった僕が目立つように、三田寛子ちゃんと2人だけの常識クイズコーナーを作ってくださったんです。

 

 また後々に聞いた話ですが、番組卒業時に頼りない僕を心配して『真だけ残すことはできないか』と言ってくださったそうです。結局は『全員揃っての卒業』となりましたが、本当の親のように目をかけてくださいました」

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