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原田龍二、いつでも “ふんどし一丁” の心意気「やってしまったことは仕方ない…だからこそ前を向く」
エンタメ・アイドルFLASH編集部
記事投稿日:2021.09.13 11:00 最終更新日:2021.09.13 11:00
京王井の頭線、浜田山駅。原田龍二はデビュー間もないころ、この町のマンションに住んでいた。
「当時とはだいぶ趣が変わりました。お世話になった飲食店も多くが違うお店になってしまいましたね」
懐かしそうに歩いて向かったのは、創業54年の「うなぎ さか井」。店の外にもうなぎを焼く香ばしい匂いが漂う。
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「いらっしゃい。久しぶりだね。元気だったかい」
カウンターの中から声をかけてくれた店主の坂井敏行さん。今年で80歳になる根っからの「うなぎ料理人」だ。
笑顔で応じてテーブル席に座った原田が、店との出合いを語った。
「初めてお店にお邪魔したときのことは鮮明に覚えています。お店の前を通りかかったとき、まるで何かに導かれるようにのれんをくぐっていました。22歳でしたから『どうしてもうなぎが食べたい』ということはなかったと思うんですけど」
原田はたちまち坂井さんの丁寧な仕事と味に魅了され、通うようになったという。
「とはいってもうなぎはお高いですから、給料をいただいたときの『自分へのご褒美』、月に一度の贅沢でした。つき合い始めたばかりの妻ともちょくちょくうかがいました」
■やめることばかり考えていた若手時代
原田は、大学生のとき渋谷でスカウトされた。しかし、芸能界にはまったく興味がなかった。
「硬派を気取っていましたから、芸能界はチャラチャラしているように見えたんです。だから事務所がすすめてくれたオーディションも “行ったふり” でサボってばかり。
ですが、1990年の『第3回ジュノン・スーパーボーイ・コンテスト』はマネージャーさんの “監視” もあったのでごまかせなかったんです」
そこで準グランプリを獲得。グランプリは俳優の葛山信吾だった。2年後、ドラマ『キライじゃないぜ』(TBS系)で芸能界デビュー。ちなみに、妻の愛さんとはこのドラマで共演、親しくなった。
ブレイクした原田だが、なぜ自分が売れているのか、ずっと「違和感」を抱いていたと打ち明ける。
「僕には演技の下積みもありませんし、何かのスキルがあるわけでもありません。言ってみれば『ぽっと出』です。仕事でほめられることもなく、ほめられなければやり甲斐も生まれません。『まわりの皆さんに迷惑をかける前に早くやめなければ』ということばかりを考えていました」
しかし、仕事は途切れない。1996年に映画『日本一短い「母」への手紙』で日本アカデミー賞新人俳優賞を受賞。さらに注目された。当時の心境を原田は「葛藤する気持ちにふたをしました」と振り返る。
そんなとき「自分を見つめるきっかけになった」というドキュメンタリー番組への出演依頼があった。『世界ウルルン滞在記』(MBS・TBS系)だ。
「いきなりスリランカ南部のインド洋でカツオの一本釣りをさせられました。だけど、海は大しけ。釣りのシーンは撮れませんでした。
モンゴルには3回行き、今でも僕の馬がいます。ラオスにも3回。辺境の地が多かったですね……。ですが、そういった国だからこそ気づかされたことがあるんです」
原田はそれを「とんでもない感動と価値観の崩壊」と表現した。
「日本の暮らしは便利ですが『物がないから不幸』ということはないと気づきました。一見、不自由と思える場所にこそ解放感だったり生きる力だったりの幸せが多くあった。
そんなすべてが、それまでの僕の価値観に衝撃を突きつけ、そして崩れました。そこからは新たな価値観を構築する作業を繰り返しました」
この経験が「人間・原田龍二」の形成にどう影響しているのだろうか。
「それがまだわからないんです。ただ仕事も含めて『すべての出会いは偶然ではなくかけがえのない必然』と思うようになりました。『今、目の前にあることを全力でやらなければ』という気持ちです」