エンタメ・アイドル
筧利夫、役者人生で笑顔を忘れた時期も…世間の反応が嫌だった30歳のころ
エンタメ・アイドルFLASH編集部
記事投稿日:2022.01.23 11:00 最終更新日:2022.01.23 11:00
2000坪の区画の中に200軒以上の酒場が並び、数多くの作家、映画・演劇関係者が足繁く通う、新宿ゴールデン街。筧利夫も常連の一人だ。
「夕方以降、仕事がなければ午後3時から自宅で飲み始めます。ビールを2缶飲んだら続いて焼酎ロック。以前は、それからこの店に繰り出していましたが、コロナで自粛。今は家でグワ~ッと飲んだら午後7時には寝ていますね」
【関連記事:マギー審司、チャリティボウリング大会で被災地を支援「東日本大震災で祖母と親戚を喪った」】
馴染みの店「しんしら」のカウンター席に座り、豪快に笑う筧。ここのママはかつて舞台制作をしていて、筧の主演作を数多く担当した旧知の仲。17年前に制作の仕事をやめて店をオープンした。
筧はジョッキに残ったビールを飲み干し、かち割り氷が入ったグラスに麦焼酎を注ぎながら青春時代を振り返った。
■第三舞台で鍛えられた「自分でなんとかする」精神
静岡県浜松市の高校を卒業した筧は大阪芸術大学に入学。演劇人生が始まった。
「大学時代は学生が150人くらいいる大型アパートで過ごしました。家賃6000円で炊事場と風呂は共同。そこに『劇団☆新感線』を主宰していたいのうえひでのりさんが住んでいまして、親しくさせていただきました。そのうちなんとなく裏方のお手伝いをするようになり、舞台にも立たせてもらえるようになりました」
瞬く間に劇団の看板俳優になった筧は、4回生のときにいのうえ氏から「大学卒業したらどうする? 東京に行く気なら『第三舞台』という元気な劇団がある。劇団員オーディションをやるみたいだから、いっけいと一緒に受けてこい」と提案された。
“いっけい” とは同じく新感線で活躍していた渡辺いっけいである。
「すごいですよね。だって僕らは当時、看板俳優だったんですよ。受かったら劇団をやめることになるじゃないですか(笑)」
一次オーディションでは、渡辺がとにかくウケまくった。
「音楽に合わせて自由に動きながら笑ったり怒ったりさせられたんですけど、いっけいさん大ウケ、独り勝ち(笑)。終了後、オーディション参加者から握手を求められていました。一応、僕も二次オーディションではかなり頑張って笑かしましたよ。
でも、最終結果には驚きました。合格したのは僕一人。後日(主宰者の)鴻上尚史さんに理由を聞いたら『全劇団員がいっけいさんを推していたから、僕は逆に筧にしようと思った。いっけいさんはどこの劇団でもやっていけそうだったけど、筧はうちじゃないとダメだと感じた』と。結局いっけいさんはその後、唐十郎さんの『状況劇場』に入りました」
第三舞台の演出は、劇団☆新感線とは真逆だった。それまでは演出家の指示どおりに演技をすればよかったが……。
「最初はわけがわからなかったです。台本を渡された翌日にはもう立ち稽古。台本持っちゃいけないんですよ。一日じゃ覚えられないから途中で固まるでしょ? でも言葉や動きを止めると怒鳴られるので、役者はドッタンバッタン羽をもがれた蝉のようにギャーギャーのたうち回る。地獄絵図でした(笑)。
解散するまでほぼすべての舞台に立ちましたが、この時期に培った『自分でなんとかする』の精神は今でも役に立っています。それと『間の詰め方』。前の人の台詞が終わってから舞台袖を飛び出すと一瞬だけど間が空く。でも、台詞が終わる数文字前に出ればタイミングが合う。いい修業期間でした」