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“カムカムおじさん” 囚人から英語を学び、ハリウッド映画にも出演してた【息子が語った『カムカムエヴリバディ』秘話】

エンタメ・アイドル 投稿日:2022.02.26 06:00FLASH編集部

“カムカムおじさん” 囚人から英語を学び、ハリウッド映画にも出演してた【息子が語った『カムカムエヴリバディ』秘話】

スタジオで生放送中の平川唯一

 

 朝ドラ『カムカムエヴリバディ』(NHK)が話題だ。上白石萌音、深津絵里、川栄李奈が、戦後から令和にかけた親子3代のストーリーを描き出す。

 

 物語の縦軸となるのが、ラジオから流れる英会話講座『カムカム英語』だ。たとえば、3代目ヒロインの大月ひなたは、想いをよせる外国人の少年と言葉を交わすため、番組を熱心に聞いている。聞こえてくるのは、さだまさしが演じる英語講師の声だ。

 

 

『カムカム英語』は、かつて実在したラジオ番組。1946年(昭和21年)からNHKラジオで放送が始まり、戦後間もない日本に、確かな英語力を届けた。このラジオで講師を務めていた人物が、「カムカムおじさん」こと平川唯一だ。

 

 平川の次男で、『「カムカムエヴリバディ」の平川唯一』の著者である平川洌氏がこう語る。

 

「父は不器用でしたが、時間をかければなんでもできる人。つまり、真面目だったんです。完璧主義者でもあり、カムカムの放送も全部原稿に書いて、アドリブなしでやっていたんです。その原稿も全部残っています。他の人が1日で造ってしまうものを、父は10日かける。その代わり、きちんとしたものを造りあげる。父は、暗く荒んだ当時の日本を明るくするため、情熱のすべてをカムカム英語に注いだんです」

 

 平川唯一は、いったいどんな人生を歩んできたのか。

 

 1902年(明治35年)、現在の岡山県高梁市で、農家の次男として生まれた平川は、幼い頃から農作業に明け暮れた。平凡な少年だったが、父・定二郎の投機の失敗で、人生が大きく変わる。

 

「唯一の父、つまり私の祖父にあたる定二郎が米相場に手を出して、だいぶお金を失ってしまったんです。それで、定二郎は2歳の父を置いて、アメリカに出稼ぎに行きました」(洌氏。以下同)

 

 高等小学校を卒業し、農作業に従事していた平川は、ある日、アメリカに暮らす父に手紙を書くと、返事が返ってきた。そこには、「アメリカに来たいのであれば、旅費くらいは送ってあげる」と書かれていた。

 

 こうして平川は、16歳のころ、兄とともに渡米。オレゴン州ポートランドで、父や兄とともに鉄道の保線要員として働き始めた。しかし、当時の平川は英語がまったくできなかったという。

 

「ABCもわからなかったんです。アメリカには辞書を持っていったんですが、間違えて、和英辞書ではなく英和辞書を持っていってしまったんです。英語を習ったこともないから、辞書の引き方もわからずに困ったといいます。

 

 夜学にも通ったらしいのですが、なかなか英語が上手にならなかった。保線要員のなかに英語がうまい日本人通訳がいて、よく『グリービン』と言っていた。その意味を聞いて、ようやくそれが『good evening』だとわかったと言っていました」

 

 あるときは、通学路のそばにあった刑務所で、囚人と会話したこともあるという。

 

「本当は話しかけちゃいけないんですけど、囚人も外の生活を知りたがって、歩いている人に話しかけていたそうです。父はそれを英会話を磨くいい機会だと思って、毎晩、囚人と塀越しにしゃべっていた。看守に怒られてあきらめましたが、当時の父は英語が下手でしたから、他に相手してくれる人がいなかったんでしょうね」

 

 17歳でシアトルの小学校に入学。文法がまったくわからなかった平川は、周りの生徒や教師の英語をクチマネして学んだという。これが役立ち、徐々に英語が上達。ついにワシントン州立大学に入学した。

 

「大学では、物理を専攻しました。エジソンみたいな発明家になりたかった父は、人としゃべるのが苦手だったこともあり、黙っていても取り組める物理を選んだのです。

 

 しかし、成績が悪くなり、大学2年で演劇科に移ります。父は岡山にいたころから、演劇に興味があったようです。だから、物理をやめ、次になにを学ぶか考えたとき、演劇しかなかったんだと思います」(同)

 

 演劇を学んだことで、平川は美しい発音を手に入れる。

 

「演劇科では、相当発音を叩き込まれたようです。だから、父以上にいい声、いい発音で英語をしゃべる日本人英会話講師は、他に誰もいないんです」

 

 29歳で大学を首席で卒業。協会の副牧師や日系人による小劇団の専任監督などを任されたのち、平川は、映画の聖地・ハリウッドに向かった。

 

「演劇科を卒業した人間として、ハリウッドで仕事したかったのだと思います。実際に映画にも出演していて、中国人を演じています。テープが残っているので、いまでもハリウッドで奮闘していた若き日の父の姿を観ることができます」(同)

 

 1937年(昭和12年)に帰国した平川は、NHK国際部のアナウンサーに合格。終戦時には、昭和天皇の玉音放送を海外に向けて英語で発信している。その後、NHKを退職するが、教養番組のプロデューサーから依頼を受け、平川の英語力と経験を活かしたラジオ番組が始まる。放送開始は、1946年2月1日のことだ。

 

「NHK時代の同僚が、これまでとは違った英会話番組を制作したいと訪ねてきたんです。まずはテーマソングを作るところから始まりました。いまでこそ語学番組にテーマソングはつきものですが、実は、『カムカム英語』が草分けなんです。

 

 父は『カムカム英語』を始めるにあたって、英会話は勉強と思ってはダメだと言っていました。勉強と思ったら続かない、あくまでも “英語遊び”。気持ちはベイビーになりなさいと。文法にこだわらず、英語のモノマネをする。だから、『カムカム英語』を聞いて学んだ人のことをカムカムベイビーと言うんです」

 

 すぐさま人気となった『カムカム英語』は、再編を繰り返しながら、5年にわたって放送された。戦後の日本に明るい英語教育をもたらした功績は高く評価され、1992年(平成4年)、大学英語教育学会から「特別功労賞」を授与された。平川が亡くなるのは、その翌年のことだ。

 

「父は、『カムカム英語』を通じて、日本を明るくしたいという思いでいっぱいでした。はっきり言いますが、民主主義を日本に持ってきたのは、マッカーサーと平川唯一なんですよ」

 

写真提供:高梁市歴史美術館蔵

 

( SmartFLASH )

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