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ウド鈴木、最初の相方は幼馴染み「解散がショックで “ピン” でしか活動しないと決めた」
エンタメ・アイドルFLASH編集部
記事投稿日:2022.04.10 11:00 最終更新日:2022.04.10 11:00
「僕の父は “野球を教えない星一徹” でした。とにかく厳しくて頑固。そんな父でしたが、お酒を飲んだときだけニコニコで『父ちゃん、こづかいくれよ』とせがむと『わかった、わかった』って兄弟4人に3000円ずつくれました。
朝になると『起きろ。昨日の金、返せ』ってなっちゃうけど(笑)。だから、僕は『お酒は人を朗らかにする魔法の水だ」と思っています。僕自身はお酒、弱いですけど」
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目黒・権之助坂にある開店から48年を迎えた老舗スナック「プライベート」。11年前、ウド鈴木は偶然、店先のネオンサインに誘われてドアを開いた。以来、常連客になったウドは、磨き込まれたカウンターで「山崎」のハイボールを飲みながら語り始めた。
小学生時代のウドは「人見知りだけど、みんなには注目されたい」という矛盾した思いを抱えていた。
小学5年生のときだ。学校の「お楽しみ会」で、クラスメイトの岡部君が八代亜紀のものまねで『雨の慕情』を披露した。
「カツラをかぶり、メイクもばっちり。さらに『雨雨……』のサビで、カゴに入ったアメを皆さんに撒いたんです。これが大ウケ。そのとき真剣に『僕も人前に出るようにならなくちゃ』と気合を入れました」
ちなみに、ウドはこの岡部君と、のちにコンビを組むことになるが、そのときは知るよしもなかった。
「高校は家業の米農家を継ぐのが長男の務めだと思い、農業高校に進学しました。
でも芸人になる夢をあきらめきれず、とりあえず上京しようと、高3の進路相談で担任と父親を前に『東京で就職します』と宣言したんです。
父親は大激怒しましたが、山形に本社がある平田牧場に就職。東京の芝浦営業所を希望し、配属されました。寮もあり、先輩社員は山形出身の人も多く、方言を気にすることもなく楽しいサラリーマン生活でした」
商品の配送がおもな仕事だった。ある日、配送先の浅草で呼び込みをしている同年代の男性の姿がウドの目に入った。
「あの岡部君だったんです。びっくりしました。『何やってるの?』と聞くと『(ビート)たけしさんに憧れて、住み込みで働いているんだよ』と岡部君が指差したのはストリップ劇場のフランス座。岡部君は芸人になるため行動していたんです」
ウドは先輩社員に「芸人になりたい」と話していたが、なるために具体的な行動は何ひとつしていなかった。自己嫌悪と焦燥で落ち込み、実家に帰ろうと、世話になった寮長に思いを打ち明けた。
「寮長さんは『芸人になりたいんだろ。だったら挑戦してみろ。何もしなかったら40、50代になって必ず後悔する。だめなら山形に帰ればいいじゃないか」と言ってくださいました。
僕は「よし、やるんだ! やらねばならない! とスキンヘッドにして、『芸能人はデニムだ』とジージャンを買いました」
一人暮らしを始めたウドは、アパートのすぐ近くにあった浅井企画に向かった。
「コント55号さん、小堺一機さん、関根勤さんに憧れていた僕は運命を感じました。皆さん、浅井企画の所属なので。入口のドアを開けて『山形県立庄内農業高等学校卒業、鈴木任紀(ひでき)です! よろしくお願いします!』と頭を下げました」
ゆっくり頭を上げると、吉野家の牛丼を食べていたスタッフがぽかんとした顔をしてウドを見ていた。しばらくして奥から当時の専務が現われ「お相手を訪ねるときは、まず電話をしてアポを取りつける。それが社会のルールだよ」と諭された。
「謝りながら『社会とはそういうものか』と思いました。
僕は1階に降りてすぐに公衆電話から『先ほど伺った者です。これから伺ってよろしいでしょうか』と専務に電話をしました。専務は『そういうことじゃないんだよ』とあきれていました」
コントのネタのような行動に専務は「……上がってきなさい」と優しく言った。
こうして浅井企画に「預かり」という形で入ったウドは、独自に岡部君とコンビを組み活動を始めた。
「でも1年で解散しました。ネタ合わせで会っても、僕は幼馴染み気分で『遊びに行こうよ』ってなっちゃうんです。
ある日、岡部君に『僕たち、1年に2回しか舞台に出てないよね。やる気のある人は、もっと出ていると思う。僕たちはコンビを続けてもこの先は同じだと思う』と言われました。僕が全部悪いんですけどショックでした……。
岡部君はその後、別の方とコンビを組んで、そのコンビ解散後は『僕はやるだけやったから後悔はない』と故郷の山形に帰りました」