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ガダルカナル・タカ、芸人時代は常に手探り「“持ってない” からこそテレビタレントにシフトできた」
エンタメ・アイドルFLASH編集部
記事投稿日:2022.04.17 11:00 最終更新日:2022.04.21 00:21
「丁寧に作られていて、素朴だけど本当に美味しいものはこういうものと実感します」
旬の厳選された食材を使用したおばんざいを食べられる「恵比寿 ろくごう」で、炊き立ての土鍋ご飯を前に笑顔になる、ガダルカナル・タカ。
「番組とかで “白ご飯に合うおかず選手権” とかありますが、このお店で炊き立てのご飯を食べてから、本当に大事なのは米と炊き方のほうだと気づかされました」
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たけし軍団のまとめ役としてバラエティ番組で活躍してきたタカだが、「自分は流されるままにやってきた」と語る。
「もともと知り合いに芸能事務所を手伝ってほしいと言われて上京したら、なぜか出役(でやく)で考えていると言われ、いつの間にかこの業界に足を突っ込んだという感じです。お笑いも芸能界も興味はなかった」
急な話だったが、出役にまわるならと幼馴染みのつまみ枝豆を誘い、カージナルスを結成。人気番組『お笑いスター誕生!!』(1980~1986年、日本テレビ)に出演し、コントで勝ち進んでいった。だが、本人に手応えはなかった。
「いい状況というのは感じていたけど、それは演出家の方の言うことを聞いていたから。コントを選んだのも、漫才と違い衣装や音楽、演出で人の目をなんとなく惹きつけてごまかしが利くかもと思ったからだし。漫才も一応やってみたけど、テクニックが追いつかなかった。とりあえず僕らは技術がなかったです」
当時は漫才ブーム。劇場で力をつけた同年代が活躍を始めるなか、カージナルスは徐々に仕事が減っていった。そんなとき空前のドリフターズブームだった台湾で、命運をかけた公演をすることに。
「会場に行ったら『ドリフ来台』という日本語の看板があったので、僕らは挨拶をしたいと楽屋に案内してもらったんです。でも、そこは僕らがさっきまでいた楽屋。するとコーディネーターが『あなたたちがドリフよ』って。
台湾の人たちが僕らをドリフの一員だと勘違いしてたんですよ。もうめちゃくちゃ。でもステージでひげダンスを披露したら、大ウケ。気持ちよかったなあ。ま、そのコーディネーターが売上金を持ち逃げしてすべてが終わりましたが」
■たけしと過ごした濃厚な日々は宝物
所属事務所も倒産し、行く当てがなかったときにそのまんま東(現・東国原英夫氏)の誘いで、ビートたけしと出会う。飛ぶ鳥を落とす勢いだったたけしを見たタカは、「この人についていこう」と一瞬にして思ったという。
「当時のたけしさんは草野球をしていて、そのメンバーとして誘われたのが最初です。初めての会話は『アンちゃん、どこ守れるの?』でしたね。
覚えているのは、一回り大きいファーストミットで守っている枝豆を見て『お前、シオマネキみたいだな』って。片手だけデカい蟹に例えたのですが本当にそっくり。こういうなにげないツッコミセンスもすげぇって感じました」
そんなビートたけしを慕う草野球のメンバーで結成された「たけし軍団」の一員に。同世代の芸人たちで体を張った笑いを見せていく。
「たけしさんに憧れて入ってきているから、全員発想がボケ。なので自然とツッコミの僕がまとめ役になり、たけしさんとのパイプ役になっていきました。仕事という感覚はなく、学生時代の友達と部活をしているような感じでした」
忘れられないのが、「フライデー襲撃事件」(1986年)の謹慎期間中のことだ。タカの家族の旅館でたけしと過ごした。
「夏ということもあり天体観測をしたり、ゴルフをしたり、かなり満喫しました。仕事はできないけど、たけしさんと毎日くだらないことができて、独り占めにできるという楽しさがあって。
もちろん天体観測用の望遠鏡を露天風呂に持ち込んで……とめちゃくちゃなことばかりでした。実際は半年ですが、体感は2年くらい。それくらい濃厚でした」