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川平慈英、サッカー愛を叫んで人生変わる…母を泣かせて選んだ役者の道は「ようやく肩の力が抜けた」
エンタメ・アイドルFLASH編集部
記事投稿日:2022.05.01 11:00 最終更新日:2022.05.01 11:12
「くぅ~! この味、最高です。じつはジンギスカンが苦手だったんですけど、ここのジンギスカンを食べたら一気に虜になりました」
この日も川平慈英はハイテンションだった。
目黒不動尊近くにある「炭火焼ジンギスカン まるひろ」。店のたたずまいは年代を感じさせるが、開店してまだ2カ月。店主は元アパレルメーカー社員で、川平とは20年来のつき合いになる。
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「2人でサウナに行き、汗だくになっていたら『会社を辞めてジンギスカン屋をやる』と言われてびっくり。でも、思いましたね、『人間は何歳になってもいろいろできる。可能性はいっぱいあるんだ』って」
川平は炭火を見つめながら、沖縄で過ごした子供のころを語り始めた。
「僕が住んでいたころの沖縄はまだアメリカでした。母はアメリカ人で、父は日本人。ときにはハーフというだけでいじめられることもありました。だけど、母はいつも『半分(ハーフ)なんて人間はいないのよ。あなたたちは日本とアメリカのW(ダブル)なの』と言っていました。いい言葉ですね、Wって」
1972年に沖縄は日本復帰。その翌年、父親の仕事の関係で川平一家は東京に移った。
「小学5年生でした。『またいじめられるのかな』と心配していたら、『母ちゃんがアメリカ人? すげー』『英語、しゃべれるの? すげー』さらには『カッコいい』でした」
サッカー好きだった川平は高校でサッカー部に入部。しかし、ヘディングをしたあとリーゼントヘアを気にする先輩などに落胆した。
すると、一人の先輩が読売サッカークラブ(現・東京ヴェルディ)のユースチームを教えてくれて、川平は門を叩いた。そこには都並敏史、戸塚哲也などのちに日本代表でも活躍する選手がいた。
川平はツートップの一角を担い、高校2年のときには日本クラブユース選手権で優勝。プロ選手を目指したが、当時の日本にはプロ制度がなかった。そこで「アメリカならプロになれる」と留学を決意した。
「テキサス大学が特待生で迎え入れてくれて、2年生のときには全米ベストイレブンにも選ばれました。しかし、監督が代わり、僕の持ち味を生かせるブラジルサッカーからヨーロッパサッカーになりました。それからは出場回数ゼロ。監督に起用法を聞くと『君は使わない』と宣告され、その夜はチームメイトの友人の前で号泣しました」
「サッカーのモチベーションがガス欠になった」という川平は帰国し、上智大学に編入した。そこで演劇という新たなピッチに立つことになった。
「友人が『慈英、ダンス好きだろ?』と学生英語劇連盟のミュージカル『フェイム』のオーディションがあることを教えてくれました。高校時代、サッカーをやりながらダンスパフォーマンスなどをする『演劇表現部』を作り、文化祭でオリジナルダンスを披露していたんです。
『フェイム』の映画版は大好きな作品なので熱いものがこみあげましたけど、オーディションは翌日。ダメもとで『受けたいんです』と申し込んだら参加させてくださいました」
川平は『オズの魔法使い』の『ザ・ウィズ』を歌い、審査員の心を揺さぶった。結果は合格。3日間の公演は記録的な観客動員数だった。スタンディングオベーションを受けた川平は「僕が行く道はこれだ。ステージだ。役者だ」と確信した。
しかし、難題が待ち受けていた。子供を教師にすることを夢見ていた母への説得だった。
「2人の兄はそれぞれ別の道を歩んでいましたから母は僕に期待していました。だから『教師にはならない』と伝えたら泣かれて。初めてですね、母に楯突いたのは。
『ハーフの役者はイロモノにされる』『悪い誘惑もある』と心配されました。でもデビュー2作めが坂東玉三郎さんに抜擢された『ロミオとジュリエット』の舞台。母は大喜びしました。玉三郎さんの大ファンだったんです(笑)」