その後、鶴光はテレビやラジオにも活躍の場を広げた。
「大阪の芸能は独特で、落語が上手でもテレビやラジオに出ていないとなかなか世間は認めてくれません。『あいつは落語が下手や』となる。だから顔と名前を売らなあかんのです」
鶴光はオーディションを受けまくった。会場にはいつも兄弟子の仁鶴、同年代の桂ざこば、桂三枝(今の文枝)がいた。そして1974年、『オールナイトニッポン』(ニッポン放送)のパーソナリティになった。
「『えげつない』と言われ、スポンサー企業の不買運動にまでなりました。PTAでも問題になり、局には『鶴光、やめさせ』という電話がジャンジャン。『僕たちのやってることは間違いやろか』と悩みました。だいぶたってから森高千里さんが『小学4年のとき布団をかぶりながら聴いていました』と言うのを聞いて救われたけど。そやけど、番組占拠率は90%。100人がラジオを聴いてたら90人が番組を聴いてるんです。裏番組には『セイ!ヤング』(文化放送)、『パックインミュージック』(TBSラジオ)。それでこの数字はすごいやろ。届いたハガキは1週間に1万通でっせ」
何がリスナーを惹きつけたのか。番組作りには、落語家らしいこまやかな気配りがあった。
「本番で読むハガキは3回読み直して『書いてきたリスナーは僕にどういうふうに読んでほしいのか。何を伝えたいのか。どうツッコんでほしいのか』を考えました。マイクの向こうには何万人ものリスナーがおる。上っ面のしゃべりにならないように場面場面でおじさん、高校生、深夜に皿洗いをしているおばちゃんの顔を思い浮かべ、その人と話しているようにしました。そうすると声に優しさと温かさが出る。ラジオはリスナーとマンツーマンやからね。そやから『レコードを出したんで買うてや』と言えば『鶴光が俺に頼んどる』と嬉しくなり買うてくれました(笑)」
人気者ゆえに、こんなこともあった。鶴光のあだ名は「エロカマキリ」。悪ノリしたのか、リスナーから「カマキリの卵」が送られてきたのだ。
「ディレクターがそれを会社の机の引出しに入れておいたんです。どうなったと思います? 春に卵がかえって部屋中にカマキリがウヨウヨ。えらいことになったそうです」
そのころリリースされたレコード、『うぐいすだにミュージックホール』も大ヒットした。
「第8回全日本有線放送大賞新人賞もちょうだいしました。
歌を聴いてくれはったコント・ラッキー7の関武志さんが涙ぐみましてね。『キャバレーやストリップの舞台に立っていたころを思い出しちゃって』と」
余談だが松鶴からは「ろくに落語もできんくせに流行歌手かい」と小言を言われたという。思い出話は尽きない。
生ホッピーも3杯めになった。最後にこれからの落語界をどのように引っ張るのかを聞いた。
「落語界はぬるま湯におったんかもしれません。それを感じたのが講談師の神田伯山。ガラガラの演芸場が次第にお客さんで埋まっていく。伯山の出番が近づいているんですわ。落語界も彼のように新しいことを取り入れていかなあきません。落語には古典落語の基本はあっても『型』はない。若手も基本を忘れずに新作落語をどんどんやったらええ。僕も東京と大阪の落語家がもっと交流できるように力を尽くします。大阪の落語家が東京の高座に上がり、東京の落語家が大阪の高座に上がる。お互い刺激し合って、いいところを落語に生かせればいいと思てます。僕も80、90になっても頑張りまっせ」
しょうふくていつるこ
1948年生まれ 大阪府大阪市出身 1967年、六代目笑福亭松鶴へ入門。1968年2月大阪新世界新花月で初舞台。ゴールデン・アロー賞芸能新人賞、夜のレコード大賞最優秀新人賞、ギャラクシー賞個人撰賞などを受賞。『笑福亭鶴光のオールナイトニッポン.TV@J:COM』(隔週土曜22:30~)などに出演
【大衆酒場 ひげの平山】
住所/東京都江東区毛利1-9-5
営業時間/17:00~24:00
定休日/休日曜
写真・野澤亘伸