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中野英雄 息子・太賀の作品で号泣した過去「彼を見ていると、柳葉さんとダブります」
エンタメ・アイドルFLASH編集部
記事投稿日:2022.08.07 11:00 最終更新日:2022.08.07 11:00
「バブルガム・ブラザーズのブラザー・コーンさんが『高円寺に住んでいてここを知らなかったらモグリだよ』って言うほどファンが多い店で、大槻ケンヂさんや佐野元春さんもお見かけしたことがあります」
高円寺駅北口で待ち合わせた中野英雄が案内してくれたのは、10坪ほどの飲み屋がひしめき合う路地にある「NEWーBURG」。開店して53年になる、ハンバーグが名物のカウンターレストランだ。
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「1回めは『なんだ、このハンバーグは?』って思う不思議な味なんですが、なぜか二度、三度と食べたくなる常習性が高いハンバーグです」
熱々の鉄板に盛られたハンバーグが運ばれてきた。
「いつもはフォークしか使わないけど今日は撮影だから」と笑いながらナイフを入れる。立ちのぼる湯気。その向こうで、中野は少年のような笑顔を見せて頬張った。
「ハンバーグステーキという料理を初めて食べたのはここです。確か小学2年だったかなあ。うちはオヤジがどうしようもないやつで、とんでもなく貧乏でした。だから一人前のハンバーグを母と妹、僕の3人で分け合って食べたんです」
少年時代は、荒れていた。
「巷でいわれるエピソードは盛られすぎです。喧嘩無敗のように語られていますけど負けたことしかありません」
と苦笑するが、中野は近隣の不良たちに知られた存在だった。そして「あの喧嘩がなかったら僕はヤクザになっていたでしょうね」と、哀川翔との出会いを振り返った。
「翔さんは友達の家に遊びに行く途中でした。彼とすれ違ったとき僕がガンを飛ばしたんです。それで喧嘩になり、僕はボコボコにされて顔面血だらけ。帰宅して卵かけご飯を食べていたら、玄関の引き戸が開いて、翔さんが『大丈夫?鼻の骨、折れてない?』って心配してくれたんです。『この状況、どうすればいいんだ?』って思いながら『大丈夫っす、折れてないっす』と答えるのが精いっぱいで(笑)」
当時、専門学校生だった哀川は雑誌「ポップティーン」のアルバイトライターをしていた。中野は誘われるままにロックンローラーの路上パフォーマンスなどを見に行ったが、「暴走族の俺らは交われない」と思った。
その後、哀川は「劇男一世風靡」のメンバーになる。ずっと交流は続いていたので、中野がメンバーになるのは自然な流れだったのかもしれない。中野は19歳になっていた。
「世間の常識を知らない僕に、先輩方が礼儀や挨拶の仕方を一から教えてくれました。僕にとっては大学でした。
仕事は付き人で、先輩方の身のまわりの全部をお世話しました。事務所に寝泊まりすることも多かったですけど楽しかったです。その後はだんだん柳葉(敏郎)さんのお世話をすることが多くなり、柳葉さんはドラマ出演も多かったので僕も犯人なんかのチョイ役で出演していました。痴漢をして逃げる男とか(笑)。
『君の瞳をタイホする!』(1988年、フジテレビ)では7回くらい犯人をやりました」
しかしストレスも溜まった。
「一世風靡の仕事だけなら楽しかったんですけど、柳葉さんから『いろいろな方に重宝されるようになりなさい』『 “作品” の付き人になりなさい』と言われて。皆さんから『ヒデ』と呼ばれてかわいがられましたけど、こき使われるから休みもない。理不尽なことも言われて『こいつ、殴ってやろうか』と本気で思ったこともあります」
鬱憤は積もりに積もり、ニューヨークのホテルで柳葉と大喧嘩をしてしまう。
「『ニューヨーク恋物語』(1988年、フジテレビ)の撮影で滞在していました。酔った柳葉さんとゴタゴタしまして、『お前なんか日本に帰れ』となって売り言葉に買い言葉。『わかりました』と帰国して、それからは柳葉さんの付き人から外れました」