「お店がオープンした15年前、僕とヨメの阿木(燿子)は近くに住んでいたんです。お店が出来上がり、中を見ると内装がロックな感じで、さらに厨房にいたマスターの “面構え” がすごくよかった。僕はグルメでもなんでもないんですけど『間違いなく美味しい料理が食べられる』と思いました。今は事務所が近くなので、知り合いが来たときなどはこちらで会食をさせてもらっています」
ソファでくつろぎ、楽しそうにロックな店内を見回す宇崎。マスターの奥さんが「お待たせいたしました」と「ビーフカツレツ」を運んできた。
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「これこれ。肉が分厚いでしょ」。フォークを使ってひと切れ口に入れる。
「うまい。マスター、美味しいですよ!」
笑顔で厨房に声をかける宇崎に音楽との出会いを聞いた。
「小学生のころ、音楽の成績は1でした。母親が先生に理由を聞いたら『歌をちゃんと歌わない』と言われたそうです。僕の声、小さいときからこんな感じで高い声が出なかったんです。でも先生のピアノのキーは子供の音域だから高い。歌えませんよね。『音楽の授業はダサい』と思って嫌いになりました」
家で姉が聴いていたラジオから流れるFEN(米軍極東放送網)の洋楽が宇崎を変えた。
「カッコいい!」
一瞬にして虜になったという。中学生になり、自分が音楽に向いているのかいないのか、確かめたくなりブラスバンド部に入った。しかしすぐに退部したくなった。理由は「先輩が怖いから」。
「でも逆に怖すぎて、やめることができませんでした。結局、附属の高校に進んでもブラスバンド部にいました」
このころ、宇崎はエルビス・プレスリー、リッキー・ネルソン、ポール・アンカの音楽を知る。高校2年生のときには初めてレイ・チャールズを聴いた。魂が震えた。
「大学では軽音楽部に入りましたが『音楽で食っていく』という考えはなかったですね。当時はロカビリー全盛。義理の兄がバンドマンだったのでステージを見に行くこともあり、そこに立てるのは『ルックスがいい、歌がうまい、踊りができる』という選ばれた人だと思いました。三原綱木さんのギターテクニック、尾藤イサオさんの歌……。僕は諦めました」
だが、好きな作曲だけは続けていた。アルバイトで貯めた2万円を手に、渋谷・道玄坂の裏路地にあった米軍放出品の店で「ハーモニー」のエレキギターを買った。4万5000円。不足分は一緒に行った義兄が出してくれた。
大学4年生になった宇崎は就職活動を始めた。同級生が次々に内定をもらい、焦ってもいた。その夏、銀座にある会社に面接に行くと即日採用された。
「商品取引の会社の営業でした。大学で同じ学年だった阿木とすでにつき合っていて、あちらのご両親も喜んでくれました。大学に行きながら営業。1カ月歩きまわっても契約が取れず、居心地も悪くなり辞めました。阿木に相談ですか? 彼女の実家が鉄工所だったので『働かせてくれないかなあ』と言ったら『あなたには無理』とズバリ。ずっと僕のだらしなさを見ていましたからね。講談社さんにも応募しましたが書類選考で落ちました(笑)」