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山下真司 躊躇していた『スクールウォーズ』への出演…「『ダサい』と言われること怖かった」
エンタメ・アイドルFLASH編集部
記事投稿日:2022.12.18 11:00 最終更新日:2022.12.18 11:00
霧雨が降る夕方、黒のライダースジャケットでキメた山下真司が小走りでやって来た。
「お待たせしました。山下です」
待ち合わせ時間の10分前だったが律儀に頭を下げ、自ら引き戸を引いて店内に案内してくれた。金曜日ということもあり、ほぼ満席である。
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「ご迷惑をおかけします」
周囲に挨拶をしながらカウンター席に座り、生ビールとお気に入りの「白身魚三種のカルパッチョ」を注文した。
「ハワイが好きで、コロナ禍前は年に2回ほど行っていました。そのときよく、こちらの大将が腕を振るっていた創作和食の店で食事をしたんです。6年前、帰国した大将が『楽』をオープンさせたことを友人から聞き、それからは2週間に一度お邪魔しています」
山下はビールグラスを持ちながら、18歳で上京したころのことから話し始めた。
大学に通いながら六本木の飲食店でウエイターのアルバイトをしていた。すると、業界関係の客から『モデルをやってみないか』と声をかけられた。20歳のときだった。
「漠然と役者を目指していましたが、劇団に入ると稽古でバイトもままならず生活が苦しくなるイメージがありました。だけど、モデルはその心配がなさそうなので飛び込みました」
最初こそチラシのモデルをしていたが、次第にファッションショーや飲料のCMなどにも起用され、収入は増えた。
「モデルは楽しかったです。想像していた以上に稼げましたし、現場はきれいなお姉さんばかりでしたから(笑)」
しかし、23歳のころから年齢的なことも含め「このままモデルを続けていけるのだろうか」と不安が頭をよぎった。
山下はモデルの仕事に区切りをつけた。そして、ドラマ『太陽にほえろ!』(1972~1986年、日本テレビ)などで活躍していた松田優作さんのような役者になりたいと決意。松田さんも在籍した文学座附属演劇研究所の入所試験を受けた。
超難関で知られる試験に山下は初受験で合格。1年間、研究生として基礎を学び『太陽にほえろ!』のオーディションを受けた。1回めは不合格だったが2回めで合格。
「現場入りしたときは『大変な世界に来てしまった』と思いました。当時はフィルム撮影でしたから、NGを出そうものならフィルムが無駄になるのでカメラさんの機嫌が悪くなってしまって。だけど現場に台本を持ち込んではいけなかったので、かなりNGを出しました」
七曲署のボス、石原裕次郎さんとの思い出を聞いた。
「朝、撮影前にご挨拶に伺うと決まって『おい、スニーカー。君の本名はなんだ』と笑いながらお聞きになるんです。ボス流の “イジり” ですが、その後はボス専用のキャンピングカーでドリップコーヒーをご馳走してくださり、昭和の名優を身近に感じることができました」
スニーカー刑事は「唯一、殉職しなかった新人刑事」として語り継がれている。なぜ殉職ではなかったのか。山下は「推測ですけど」と断わり、語った。
「当時はボスのお体の調子がよくなくて、撮影を休まれることもありました。その状況で『死』という演出をすることは選択肢としてなかったんだと思います」
2年後に卒業するときは「正直、あの過酷な撮影から解放されるのでホッとした」という。だが同時に「最初のドラマ出演が『太陽にほえろ!』でよかった。あのきつい現場を経験したらどんな現場もできる」と自信にもなった。
山さん役の露口茂からは「君は大丈夫。これから役者でやっていけると思うよ」と励まされたという山下は「きっと、いつも不安な顔で現場にいたんでしょうね」と懐かしむ。