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西村知美 怒られてばかりだったデビュー当初…今でも“天然発言”へのプレッシャーと戦う日々

エンタメ・アイドルFLASH編集部
記事投稿日:2023.01.22 11:00 最終更新日:2023.01.22 11:00

西村知美 怒られてばかりだったデビュー当初…今でも“天然発言”へのプレッシャーと戦う日々

西村知美

 

「日本のスペアリブ発祥の店」として知られる「アメリカンクラブハウス 都立大学本店」。西村知美は37年前のデビュー当時と変わらない笑顔で「こちらにはかれこれ20年お世話になっているんです」と言ってソファに座った。

 

「私、チェッカーズさんの大ファンでファンクラブの会員にもなっていました。20代前半のころ、お店にメンバーの方がお見えになるということを聞き『もしかしたら会えるかも』とワクワクしながらお邪魔するようになりました。残念ながらまだ、どなたともお会いできていませんが(笑)。

 

 

 でも、スペアリブは最高に美味しいし、苦手だったアップルパイですが、こちらのアップルパイは本当に美味しくて、大きいですけどペロリといただけちゃいます。チェッカーズさんにお会いするのは夢のまた夢で、お店にはずっと通わせていただいています」

 

 スペアリブとアップルパイに目を輝かせる西村が芸能界と接点を持ったのは中学3年生のときだった。菊池桃子に憧れていた西村のため、姉が雑誌「Momoco」の一般参加企画「モモコクラブ」に応募。掲載されると「第1回ミス・モモコクラブ」のグランプリを受賞した。

 

 しかし、これが大騒動に。

 

「姉は菊池桃子さんの特集雑誌だと思っていたのですが、ヌードグラビアもありました。職員室に呼び出され、先生に『将来、こういった仕事をするの?』とヌード写真のページを見せられちゃいました」

 

 弁明して事なきを得た西村は現在の事務所に所属。歌と演技のレッスンを受けるため単身上京すると、当時の専務の自宅に下宿し、試験のときは地元の山口県に帰る生活を送った。そして女優デビューとなる映画『ドン松五郎の生活』(1986年)への出演が決定。だが、その直後に盲腸を患ってしまう。

 

「腹痛がひどかったので病院に行ったら『環境が変わったための神経性胃炎』と診断されました。だけど痛みが治まらず、夜に専務さんが救急病院に連れて行ってくださり盲腸と判明しました。

 

 将来の水着撮影を懸念し、散らす方向も検討されたのですが腹膜炎になりかかっていたので翌日手術。1週間後の退院の日に熱が出たので検査したら、傷口が膿んでいて1カ月間の入院延長になりました。ホームシックですか? 帰りたくても東京の空港がどこにあるか知りませんでしたし、一人だとチケットの買い方もわからなかったのであきらめていました。もう、前に進むしかないなと(笑)」

 

■人生を変えた “現場の1ミリ”

 

 初めての映画撮影は「毎日、怒られてばかりでした」と振り返る西村。

 

「最初は台詞のイントネーションで困りました。犬の映画はアドリブが多く、方言が抜けずNGを連続で出してしまって。それと『上手、下手』の専門用語がわからなかったんです。そんな私に手取り足取り教えてくださったのが、母親役の名取裕子さんと父親役の前田吟さんでした。

 

 テスト撮影のとき、監督さんから『アップだから立ち位置を覚えておいて』と指示され、本番でも同じ位置に立ったつもりでしたが『違う』と言われ悩んでいたら、名取さんが『同じ位置に立っているつもりでもどちらかの足に体重がかかるとズレちゃうの。アップでは1ミリの違いが大きな違いになるのよ』と教えてくださいました。

 

 前田さんには演技中、『年寄りではないから、立つときや歩くときに椅子や壁に手をかける癖はやめなさい』と注意されていました。だけど今もときどき手をついて立ち上がってしまいます」

 

 撮影が終わるころには怖かったスタッフから「最近(演技の)勘がよくなってきたな」と声をかけられ、少しだけ自信がついた。この映画では「ヘタすぎてレコーディングに半年かかりました」という主題歌『夢色のメッセージ』を歌いオリコン2位を記録。また『わたし・ドリーミング』(1986年)で日本レコード大賞新人賞を受賞した。

 

 西村はこのころ「2年めのジンクス」という言葉を知った。西村と同時期にデビューした芸能人はおよそ600人。2年めも活躍するのは簡単ではない。「歌も演技もヘタで、山口への帰り方もわからない私はどうしたらいいのだろう」と悩んだ。だが1990年代前半、西村は多くの貴重な出会いをして気持ちを強くする。

 

『2×3が六輔』(1992~1993年、日本テレビ)で共演した永六輔さんからは「人とのつながり」を学んだ。

 

「永さんは『自分の人生を生きているということは誰かに借りをつくること。生きてゆくということはその借りを返してゆくこと』と教えてくださり、言葉にも厳しかったです。『僕は略した言葉が嫌いです。 “イチ推し” ではなく “一番に推している” と言ってください』と、言葉をちゃんと使うように諭されました」

 

 そして22年間出演した『さんまのSUPERからくりTV』(1992~2014年、TBS)で、お茶の間は「天然」という西村の強烈な個性を知ることになる。

 

「(明石家)さんまさんとの出会いがなかったら今日まで芸能界でお仕事ができなかったと思います。『天然』と言われることはまったく気にしていませんが、私自身は思い出話をしているだけでおもしろいことを言っている自覚がないんです。芸人さんの返しやツッコミがあるからウケていると思います。単独イベントで同じことを言ってもウケません。『何かおもしろいことを言うだろう』と期待される空気はプレッシャーに感じます。夫は『災害級の天然』と言っています」

 

 その天然発言を紹介しよう。

 

「『からくりTV』でレギュラーの方が『本番では緊張で椅子の背もたれを使わず前かがみになる』と言ったので、私は『皆さん老眼でモニターが見えないのかな』と思っていました」

 

「子供服を買ったら胴回りが小さいのでよく見たら “小型犬(用)” と書いてあった」

 

「岩風呂だと思って入っていたら池だった」

 

「レストランを探していたら『○○家』と書いてある提灯があって、お寿司を食べている人たちがいたので入ったらお通夜の席だった」

 

「尾崎豊さんのヒット曲『15の夜』(1983年)を『十五夜の夜』と勘違い。満月だから血が騒いでバイクを盗んだのだと思った」などなど。

 

 こんな「らしさ」を感じさせるエピソードもある。

 

「私がパーソナリティをしているラジオ番組にさだまさしさんが出演してくださることになったのですが、その番組前に撮影していた『志村けんのバカ殿様』が長引いてしまいました。さださんをお待たせするわけにはいかないので、私は腰元の衣装のままカツラも取らずタクシーに乗り、局へ。さださんには大ウケでした」

 

 そんな西村にはある願望が。「最近、カメオ出演をしたいんです」という。

 

「聞きなれない言葉ですが、一瞬チラッとだけ出演することです。台詞などもなく、エンドロールの名前を見て『西村知美、出てたの?』って。まるで『ウォーリーをさがせ!』みたいですね。憧れます」

 

 目をキラキラさせながら夢見る西村だった。

 

にしむらともみ
1970年12月17日生まれ 山口県出身 1985年、アイドル誌「Momoco」の「第1回ミス・モモコクラブ」に選ばれ、1986年に映画『ドン松五郎の生活』で主演デビュー。映画、ドラマのほか多くのバラエティ番組で活躍。ラジオ日本『加藤裕介の横浜ポップJ』(月曜パートナー)、ニッポン放送『森田健作青春の勲章はくじけない心』にレギュラー出演中。また声のブログ「Voicy(ボイシー)」で「とろりんの秘密基地」を発信中。今年は、出演映画『放課後アングラーライフ』、『SOMEDAYS』の2本が公開予定

 

【AMERICAN CLUB HOUSE】
住所/東京都目黒区中根2-10-1
営業時間/ランチ11:30~14:00(土・日・祝日は15:00)17:00~22:00(L.O.21:00)
定休日/年末年始

 

写真・野澤亘伸
ヘアメイク・中村恵巳(f-me)

( 週刊FLASH 2023年1月31日号 )

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