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島田洋七が語った「たけしとの出会い」終電後に歩いて語り合った魂の4時間
エンタメ・アイドルFLASH編集部
記事投稿日:2023.03.13 11:00 最終更新日:2023.03.13 11:00
3月10日放送の『徹子の部屋』(テレビ朝日系)に、B&Bの島田洋七さんが出演。洋七さんは2003年に同番組に出演したことがきっかけで、自著の『佐賀のがばいばあちゃん』が大ヒットしたことや、1980年に起きた漫才ブームについて語っていました。
この2つは、洋七さんの芸人人生において、とても大きな出来事でした。そこに深く関わっていたのが盟友のビートたけしさんだったのです。
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筆者は以前、洋七さんに『佐賀のがばいばあちゃん』を出版することになったきっかけや、たけしさんとの関係性についてお聞きしていました。
「たまたま、ばあさんの貧乏話をたけしにしたら大ウケして。それで『本を出せ』って言うから自費出版で出したのよ。3、4年ぐらい劇場の出演終わりで毎回サイン会をやって本を売ってて。そしたら2万冊ぐらい売れて」
本を出版したきっかけは、たけしさんからの助言が始まりだったのです。
1980年から82年にかけて起きた漫才ブームを牽引していたコンビが、たけしさんのツービートと洋七さんのB&Bでした。 洋七さんは漫才ブームが来る前からツービートのことは意識していたと言います。
「ツービートの漫才は『ウチと似てるな』と思ってた。『(東京に)B&Bとそっくりなコンビがおるで』って大阪に住んでるときから聞いてて。
たけしも多分、ウチの漫才をどっかで見たんやろうな。ほんでたけしの嫁さんの、みきちゃんは大阪の元漫才師やったから。みきちゃんがたけしに『大阪ではこんなパターンをやってたよ』って言うたから、似たような漫才のパターンをやったと思う。ツービートのネタは山形と東京の違いで、俺らも広島と岡山の違いやろ」
その後、洋七さんは横山やすしさんの紹介でたけしさんと初めて会うことになります。
「東京の番組でやすしさんと一緒だったときに、やすしさんが『東京におもろいやつがおるから紹介したる。たけし、いうやつ』って。
ほんで、錦糸町でたけしが待ってるからタクシーで迎えに行ったんよ。そのときにはじめて『北野で~す』『島田で~す』って。お互い知ってたけど、そのときがしゃべるのは、はじめてやった」
そこから3人で飲みに行くことになりました。
「銀座かどっかに飲みに行くのかなと思っていたら、やすしさんに『千葉』って言われて。『千葉の飲み屋?』って思ってたら毎日食堂っていう食堂やってん(笑)。
そこの食堂の大将がやすしさんの知り合いで、やすしさんは『おまえらこの店で待っとけ』と言い残して、その大将と別の店に飲みに行ってん」
そこから洋七さんとたけしさんは2人っきりで飲むことになったのです。
「食堂で2人でビールを飲んでたら、夜の11時40分ぐらいになって食堂のおばちゃんに『店、閉めるよ』って言われて。
それで、店を出て駅に行ったら最終が出たあとやってん。ほんでたけしが 『いくら持ってる?』って聞くから『400円』って言ったら『なんだ、400円しか持ってないの?』って言うから『北野君は?』って聞いたら『700円』。『変わるか!』って(笑)」
タクシー代のない2人は千葉から東京方面へ4時間ほど歩いたそうです。
「そこでたけしといろんな話をしたんや。『もしも金があったら』とか『売れたら』とか。
始発の時間になったから、電車に乗ってホテルに帰ってチェックアウトのときにやすしさんと会って。『昨日、やすしさんが俺らを置いていって。あの後、大変でしたよ』って言うたら、『元気でなによりやがな。ほんならな」ってどっか行きはったわ(笑)」
2人はやすしさんにほったらかしにされたわけですが、洋七さんは、たけしさんと歩いたあの4時間がなければ仲よくなってなかったかもしれないと言っていました。
もしかしたら洋七さんとたけしさんをわざと2人にさせて仲を深めさせるという、やすしさんの粋なはからいだったのかもしれませんね。
1968年、香川県生まれ。1992年、世界のナベアツ(現・桂三度)とジャリズム結成、2011年に解散。同年、オモロー山下に改名し、ピン活動するも2017年に芸人を引退しライターに転身。しかし2021年に芸人に復帰し現在は芸人とライターの二足のわらじで活動している。
( SmartFLASH )