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髙嶋政宏、デビューから36年「やりたい役というのはない、でも役者以外の仕事は考えられない」
エンタメ・アイドルFLASH編集部
記事投稿日:2023.03.19 11:00 最終更新日:2023.03.19 11:00
この日、髙嶋政宏が訪れたのは、神奈川・二子新地にある「中国台湾料理 佰老亭(ひゃくろうてい)」。町中華といった佇まいの店だ。髙嶋はここに来ると「俳優」としてデビューしたときの「自分」を思い出すという。
「俳優デビューしたのは、大学4年のときでした。前後して、地元の方からこちらの『海老の湯葉巻きが美味しい』とお聞きして、いただいたら感動したんです。仕事を始めて数年は、佰老亭さんで食事をしてから六本木に繰り出したりしました。キャバクラのおねえさんたちをお連れして、座敷二間をぶち抜いて飲んだこともありました。今日も飲んで、食べますよ!」
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次々と出てくる料理で笑顔になる。少年時代の髙嶋は芸能界に興味がなく、両親も別の道を歩ませようとしていた。なぜ、俳優になったのか。
髙嶋の父は、昭和の名優・高島忠夫さん。母は元タカラジェンヌで女優の寿美花代。そして叔父は音楽プロデューサーで、ビートルズの曲のほぼすべての邦題をつけたことで知られる、ヴァイオリニスト・高嶋ちさ子の父・高嶋弘之氏だ。
「小さいころ、家で『将来は芸能界に』という話はまったくなかったです。両親が出演する映画も観たことがなかったですね。父には『医者や弁護士など人を助ける仕事をしなさい』と言われました」
そう親に言われて育った髙嶋は、成城大学法学部へ進学。大学生時代はアメリカンフットボールと音楽に夢中になった。バンドではベースを担当。コンテストにも出場してライブハウス「下北沢屋根裏」のステージにもあがった。
「父のショーのバックで弾いたこともあります。僕の音楽の原点はロックバンドのキッス。当時はほかにもセックス・ピストルズなどが人気で、ロンドンパンクがブームでした。でも、プロになろうと考えたことはなかったです」
そんな学生生活を送っていた髙嶋は、ひょんなことから映画のオーディションを受けることになった。
「父が、自分が出演していた『ゴールデン洋画劇場』(1971~2003年、フジテレビ)を観ていて、相米慎二監督が『光る女』の主役を公募することを知りました。
条件のひとつが『身長185cm以上で熊のような男』。それで僕に、『お前にうってつけだからオーディションを受けてみろ』と。結果は落ちましたが、帰り際に相米監督とゲイバーの話で盛り上がったのは嬉しかったです」
その後、両親が所属していた東宝芸能のスタッフから「うちの映画のオーディションを受けませんか」と声をかけられた。もちろん “ゲタ” を履かせてはもらえない。髙嶋は「また落ちるだろうな」と、アメフトの練習後だったこともあり、ジャージ姿で防具を担ぎ、会場に向かった。
大森一樹監督は「みんなしゃれたジャケットなのにおもしろいな」と合格を出した。
こうして髙嶋は映画『トットチャンネル』(1987年)に出演することになり、 “新人俳優” になった。
「初撮影前夜は一睡もできませんでした。芝居経験はゼロでしたが、台詞はノリノリの弘之さんを相手に死ぬほど練習。そして緊張のまま現場に入りました。すると監督の『本番、よーい』の声とカチンコの音で僕の中の何かが覚醒しました。『これは一生をかける仕事だ』と思ったんです」
2本めの出演映画『BU・SU』(1987年)での評価は高く、同年のほとんどの国内映画賞新人賞を受賞した。
しかし「その後は地獄を見ました」と苦笑する。
「演技の基本もないので、周囲から『こいつ、何もできないな』という声が聞こえ、僕自身も『そりゃ、そうだよな』と落ち込む日々でした。
作品を撮っていても現実感がなく、新しい仕事が来ても『こんないい役、誰かが断わったから俺に来たんだ』と思い込み、マネージャーにしつこく問い質しました。すると『そんなこと関係ないじゃないですか。いただいたこの役は、あなたが演じるんです』と言われ目が覚めました。
思い返すと、落ち込んだときは必ずどなたかが救ってくださいました」
■40回以上のNGで知った “演じる” ということ
今でも忘れられないドラマ作品があるという。1990年にTBSで放送された『愛と哀しみの海 戦艦大和の悲劇』だ。
「母親役の倍賞千恵子さんをお相手に、僕が出征するシーンでNGが続きました。
何も言わない監督なので、僕も何が悪いのかわからない。すると36回めに助監督が『出征するのに悲しい顔をしては、母親はもっと悲しむよ』と耳打ちしてくれました。監督は(助監督に)『バカ野郎、言うんじゃない』と怒鳴っていましたが、納得しました。笑顔で最後の挨拶をしたら『ちょっとわかってきたな』と監督がつぶやき、42回めでOKになりました。
ずっとおつき合いくださった倍賞さんにはご迷惑をおかけしましたが『よかったですよ』と後日おっしゃっていただき『演じるとは何か』が少しわかりました」
それ以降も「現場では完全にアホ扱いでした」と振り返る髙嶋だが「仕上がった作品を観ると、怒られた作品ほど『俺はまだできるんじゃないか。そうだ、まだ大丈夫だ』と気づかせてくれて、次の作品に挑む勇気がもらえる」と言う。
俳優として活躍しながらバラエティ、情報番組にも多く出演。2018年に「自分が変態へと生まれ変わっていく様子を描き、その先に見えた『生きやすい人生』についてまとめました」というエッセイ『変態紳士』(ぶんか社)を上梓してから、出演依頼はさらに増えた。
同年の大晦日に放送した『ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!大晦日年越しスペシャル! 絶対に笑ってはいけないトレジャーハンター24時!』(日本テレビ)ではとうとう白パンツ一丁の姿で登場。「ムチで叩いてくれ」と浜田雅功に懇願し、お茶の間に衝撃をもたらした。
「テレビでSMの話をすることに心配もありましたが、当時のマネージャーから『逆です。映画やドラマのスタッフさんがおもしろがってくださいました』と言われ、安心しました。
闘病中の父にも『俺はアッチの元気がないから、お前がテレビで話している下ネタが大好きだ』と言われました。ただ妻は、最初こそ寛大な気持ちで笑っていましたが『私もSMをしているみたいに思われているの』と言われてからは『妻のシルビア(・グラブ)は違います』とお断わりを入れるようにしています(笑)」
さまざまな経験を重ね、デビューから36年がたった。
「そうなんですよね。よく『これからどんな役をやりたいですか』と聞かれますが、やりたい役というのがないんです。それは『いただいた役をどれだけおもしろくするか』が楽しいからなんです。
役者は評価がすべてで、自分が演じたことのすべてが自分に返ってくる。そこがやりがいでもあり、怖さでもありますが。
役者になっていなかったら? ほかの仕事はちょっと考えられないですね。役者、大好きですから」
たかしままさひろ
1965年10月29日生まれ 東京都出身 1987年、映画『トットチャンネル』で俳優デビュー。同作および映画『BU・SU』で日本アカデミー賞新人俳優賞、ブルーリボン賞新人賞などを受賞。以降、映画、テレビ、舞台と幅広く活躍。近年では活動の幅を広げ、バラエティ番組にも多数出演している
【中国台湾料理 佰老亭】
住所/神奈川県川崎市高津区二子2-4-2
営業時間/11:30~14:00、17:30~23:00(L.O.22:30)
定休日/水曜 ※祝日の場合は木曜休み
写真・野澤亘伸