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永井美奈子 人気絶頂時に日本テレビ退社を選んだ理由「フリーになりたかったわけじゃなく、ただ休みたかった」

エンタメ・アイドル 投稿日:2023.04.16 11:55FLASH編集部

永井美奈子 人気絶頂時に日本テレビ退社を選んだ理由「フリーになりたかったわけじゃなく、ただ休みたかった」

永井美奈子

 

 かつて日本テレビの本社は千代田区麹町にあった。現在、社屋は取り壊され、コインパーキングになっている。

 

 永井美奈子が訪れたのは、その向かいにある「和人餃子房俵屋」。餃子が美味しい町中華である。

 

 ドアを開けて中に入ると「わあ、店内はこんなに広かったんですね」と驚きの声を上げた永井。じつはこの店を訪れたのは、この日が初めてだった。そんな店がなぜ人生の「寄港地」なのか。

 

 

「新入社員のころから出前をお願いしていたんです。

 

 当時は周囲にコンビニもありませんでしたし、社員食堂も早く閉まっていたので、電話番などで席を離れることができないときはいつも助けていただきました。よく注文したのは、タンメン。不規則な生活だったので『野菜をたくさん取らなくちゃ』と思って」

 

 そこへ熱々のタンメンが運ばれてきた。

 

「これです、これ。懐かしい。いただいてもいいですか?」

 

 湯気に目を細めながら麺をすする永井に「この味の食レポをお願いします」と言うと「(食レポの)経験があまりないんですよ」と笑った。

 

■目立つことが苦手で第一志望はラジオ局

 

 大学時代の永井は「アナウンサーになる」という確たる目標があったわけではなかったが、2学年上の先輩がアナウンサー試験を受けることを知り、「そういう職種もあるのか」と興味を持った。

 

「だけど目立つことが苦手だったので、ラジオ局を考えていました。ところが通っていた『東京アナウンスアカデミー』のカウンセラーさんから『ラジオ局はアナウンサーを毎年採用していないから、テレビ局を受けてみたらどうか』とすすめられました」

 

 日本テレビとフジテレビを受け、フジテレビは一次試験で落ちてしまった。面接官は同局アナウンサーだった露木茂氏。

 

「今はお仕事でご一緒させていただくことも多く、『露木さんに落とされた永井です』が、定番の挨拶になっています(笑)」

 

 そして、日本テレビに合格。だが「なぜ合格できたのかまったくわかりません」と言う。

 

「おそらく “フジテレビっぽい新人” を採りたかったのではないかなと思います。

 

 あのころフジテレビさんは『ひょうきんアナ』が注目されていました。日本テレビも開局35年を目前にしていたので『そんな雰囲気のアナウンサーが一人いても』と考えたのかもしれません。人事担当に『君を採用したのは冒険だった』と言われたので、補欠採用ですね」

 

 同期は関谷亜矢子、福澤朗、村山喜彦さん。元フジテレビの河野景子八木亜希子有賀さつきさんの「花の3人娘」は同年入社である。

 

「初鳴きといわれる、初めての番組出演は11時30分から始まるお昼のニュースの最後の天気予報でした。そのとき、新人アナの密着番組も同時進行していましたので、いつも以上に多くの方がまわりにいらっしゃいました。すごいプレッシャーだったので、放送が終わったら大泣き。思い出すと今でも震えます」

 

 その後は順調にアナウンサーの道を歩んだ……わけではなかった。「新人時代は鳴かず飛ばずでした」と自嘲する。

 

「同期入社の3人は早くから担当番組を持たせてもらえましたが、私は番組宣伝といわれる、たとえば『次は火曜サスペンス劇場です』と読む仕事が多かったんです。情報番組の1コーナーしか担当がない時期もありました。しかも絶景中継なので、週のほとんどは辺境の地にいて、オンエア時間は週にその15分だけ。

 

 なんのために日本テレビに入ったんだろう。私は何をやりたかったんだろう。そればかりを考えていました」

 

 自問しながらアナウンス部にある各局の放送がリアルタイムで流れるモニターを見つめ、「自分だったらこの場面でどう話すだろう」「今この番組に呼ばれたら、こうするだろうな」と考えを深めていった。先輩からの「助走が長いほうが、飛行機は長く飛べるんだよ」という言葉を胸に刻みながら。

 

 1992年、永井の名前が全国に知られるきっかけになった朝の情報番組『ジパングあさ6』(~2001年)がスタートした。永井は関谷とともにメインキャスターをまかされた。

 

「これも “補欠” みたいなものでした。関谷アナが週末のスポーツ番組も担当していたので、『木曜と金曜に朝番組をやったら体力的にきついだろう』と私が穴埋め的に指名されたようです」と言うが、同番組は同時間帯で他局に抜きんでて視聴率トップになった。

 

 翌年には、永井は後輩の藪本雅子、米森麻美さんの3人でDORAを結成。CDをリリースしてアイドル雑誌のグラビアも飾った。

 

「28歳でいい年でしたから、正直つらかったです。

 

『私じゃなくて若い女の子でも』とやんわり抵抗しましたけど、上司からは『もう決まったことだし、永井はバラエティ番組で視聴者の皆さんに顔を知られているから、後輩を育てると思って』と頼まれてしまって」

 

 DORAは社会現象になり、毎朝多くの “追っかけ” が日本テレビに押し寄せた。やがて心ない言葉が永井の耳に届くようになる。

 

「あの子たち、何か勘違いしていない?」

 

「悔しかったですね。だからDORAで活動している間は浮き足立っていると見られないように、ニュース番組でも絶対にミスしないことを心がけていました。プレッシャーはすごくありましたね」

 

 こうして『ジパングあさ6』は、社長賞などを獲得するほどの看板番組になった。

 

 そのときの気持ちを記者は「今までの苦労が報われました」と答えると思っていた。だが、永井からは「これでいつ会社を辞めてもいいと思えました」と衝撃の答えが返ってきた。

 

「視聴率がよくても、どこかで何かが足りない気持ちがありました。視聴者の方々に “私” を認めていただくことも大切なんですけど、私はアナウンス部の同僚に “私のアナウンス力” を認めてほしかったのでしょうね。それがかなった気がしました。認められないまま、逃げるように辞めることだけはしたくなかったので『これで辞めることができる』と思ったんです」

 

 体力的にもつらくなり、アレルギー症状にも悩まされた。限界だった。辞表を提出すると上司が「永井は踊り場のない階段を上ってきたからちょっと休め」と労いの言葉をかけてくれた。アレルギー症状がすっと引いていった。「フリーになりたいのではなく、私は休みたかったんだ」と気がついた。

 

 番組出演最後の日、『ジパングあさ6』のスタジオに向かう廊下には、番組に携わった会社などから贈られた数えきれないほどの花が飾られていた。放送中は、歴代のチーフディレクターが代わる代わるフロアディレクターを担当、「CM明けまであと○秒」などのカンペを出してくれた。その文字が涙で霞んだ。

 

「日本テレビは本当にいい会社です。いろいろな経験をさせていただき、感謝しかありません。この経験を少しでもアナウンサーを目指す次代の方たちにお伝えできればと、『日テレ学院』で講師を務めさせていただいています。私が受験したときと比べて、受講者の皆さんがすごく優秀なことにびっくりしています。

 

 生まれ変わったらまたアナウンサーになりたいか? 引っ込み思案の性格でない私だったら、目指したいですね」

 

 気づくと、彼女は思い出のタンメンを完食していた。

 

 

ながいみなこ
1965年6月14日生まれ 東京都出身 成城大学文芸学部英文学科卒業。慶應義塾大学大学院政策・メディア研究科修士修了。1988年、日本テレビに入社し、アナウンス部に配属。おもな担当番組は『マジカル頭脳パワー!!』『24時間テレビ』『ザ・サンデー』『ジパングあさ6』など。成城大学文芸学部非常勤講師などを歴任

 

【和人餃子房 俵屋】
住所/東京都千代田区六番町1-1 恩田ビル1F 
営業時間/11:00~23:00 
定休日/土曜・日曜・祝日

 

写真・木村哲夫 

( SmartFLASH )

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