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中村雅俊、外交官志望から俳優の道へ「俺の演技は『我流』。役者と名乗っていいかずいぶん悩んだ」

エンタメ・アイドル 投稿日:2023.04.30 11:00FLASH編集部

中村雅俊、外交官志望から俳優の道へ「俺の演技は『我流』。役者と名乗っていいかずいぶん悩んだ」

中村雅俊

 

 西武池袋線東長崎駅の北口を出て2分ほど歩くと「三好屋」の藍色ののれんが見える。中村雅俊がこの店を初めて訪れたのは、2年前のことだ。

 

「女将さんが俺と同じ宮城県女川町出身で、知人がこちらをご存じだったので連れてきてくださったんです。子供のころによく食べた『くずかけ』を久しぶりにいただき、大好物のアワビもすごく新鮮。なんていうか、まるまる女川町といった感じのお店で、楽しく懐かしい時間を過ごさせてくれるんです」

 

 

 名物の「女川汁」を美味しそうに啜った中村は、ゆっくりと箸を置くと「高校生のころは外交官になりたかったんですよね」と笑みを浮かべた。

 

「慶應義塾大学に入り、日吉校舎だったので横浜に、風呂なし、トイレ、台所は共同の部屋を借りました。

 

 家賃は月5000円。テレビはなくて、あるのはラジオとギターだけみたいな部屋。暇なときは高校から続けていた曲作りをする貧乏学生でした。

 

 バイトもよくやりました。その数は20種類くらいかな。おもには家庭教師ですが、ビル清掃も長くやりました。早朝、銀座の『ワシントン靴店』や五反田の『TOC』の床をポリッシャーという機械で磨いて。『三越』でフジカラーの店頭販売もやりました」

 

 大学入学と同時に「外交官になるには英語が上達しなくては」とESS(英語研究部)に入部。ディベート、ディスカッション、スピーチ、ドラマの4部門があるなか「英語の芝居、おもしろそうだな」とドラマ部門に所属した。

 

 これが俳優の道に進むきっかけになるとは夢にも思っていなかった。

 

「ずっと照明などをしていましたが、3年でキャストになり舞台に立ちました。親友が主役で俺が脇役。経験を積むうちに『日本語でも芝居をやってみたい』と思うようになったんです。文学座附属演劇研究所が研究生を募集していることを知り、文学座がどういうものか知らないまま親友と入所試験を受験することにしました」

 

 試験会場になった代々木の文化服装学院には1400人を超える受験生が集まった。合格者は約30名だった。

 

「大学に合格したときより嬉しかったですね。大学は偏差値でなんとなく(合否が)わかりますが、文学座は何を基準にして合格を決めるのかわかりませんでしたから」

 

 大学生と俳優修業の二足のわらじ生活が始まった。アルバイトと稽古に励む中村は、『われら青春!』(1974年、日本テレビ)のオーディションを受けた。

 

「合格して主演デビューが決定しました。なぜ合格したのかわからなかったですね。プロデューサーの岡田晋吉さんに何度か『なぜ俺だったんですか?』と聞いたんですが『お前がデカかったから』としか言わないんです。確かに岡田さんは松田優作さん、勝野洋さんなどデカい方を起用していました(笑)。

 

 デビューは決まってもテレビ出演をしたことがなかった俺を現場に慣れさせるために、岡田さんはご自身がプロデューサーだった『太陽にほえろ!』(1972~1986年、日本テレビ)にゲスト出演させてくださいました」

 

 おおげさではなく「一夜にしてスター」になった。

 

「何もわからないのに主役だから扱いはよかったんです。まさに温室育ち。役作りは主人公の設定年齢が実年齢に近かったので『中村雅俊にその役をくっつけた』という感じでした。ドラマを観た大学の同級生には『楽して演技してるな』と皮肉を言われました」

 

 中村はドラマの挿入歌『ふれあい』を歌った。そのシングルが100万枚という空前の売り上げを記録した。

 

「売れたかどうかよりレコードが出せたことが嬉しかったですね。友人には『今度、レコードを出すんだ』と電話口で歌ったりして。お袋も近所の皆さんに『よろしくお願いします』と売り込んでくれたそうです」

 

 歌手として歌番組にも出演することになった。ステージ衣装は「大学に行くときと同じ」というベルボトムのジーンズにゲタだった。

 

「文学座のマネージャーさんに『衣装はどうしたらいいですか?』と聞いたら『一張羅でいいんだよ』と言われたので、あの格好でスタジオに入ったんです。ADさんにも『このままでいいですか?』と質問したら『いいですよ』と言われたので、そのままギターを担いで出演しました」

 

 ベルボトムのジーンズとゲタの組み合わせは社会現象になった。文学座には、中村と同じ格好をして撮影した写真がたくさん送られてきたという。中村は戸惑った。

 

「それまでは貧乏学生だったのに、ドラマが話題になり歌もヒット。突然、『自分は知らない人なのに、その人は俺のことを知っている』ということが現実になっていたんです」

 

 その後も『俺たちの勲章』(1975年、日本テレビ)、『俺たちの旅』(1975年、日本テレビ)、『ゆうひが丘の総理大臣』(1978年、日本テレビ)など出演作がヒット。人気は不動のものになった。だが、「文学座の研究生ではありましたけど、ほとんど演技の勉強をしていませんから言ってみれば『我流』でした。役者と名乗っていいのだろうか」と悩んでいた。

 

 葛藤を抱えながら臨んだ映画『俺たちの時』(1976年)で笠智衆さんと共演した。撮影中、笠さんから「気負わずに」を学んだ。

 

「あれだけのキャリアがある方なのに “役者、役者” してなくて、すごく人間味にあふれていました。ゆったりとしていて、近くにいると心地いいんです。『そうか、気負わずカメラがまわったとき自然に台詞を言えばいいのか』ということを教えていただいた気持ちでした」

 

 2011年、東日本大震災発生。故郷の女川町も甚大な被害を受けた。

 

「高校を卒業して東京へ出て、そのころの正直な気持ちを言えば『早く女川を出たい』だったんです。これからの自分の人生を考えたとき『この小さな町で終わるのか?』と思ってしまって。震災に見舞われてからは『俺は間違いなく女川の人間なんだ』という意識に変わりました。『俺の拙い歌で何かやれることがあればやる』。そう思っています」

 

 文学座の研究生になってから50年がたつ。中村はその道のりを、考え込んだのち「やることはやったなという気持ちです」と答えた。

 

「以前、今までの仕事をデータ化したことがあったんです。連続ドラマの主役が34本、コンサートは1500回を超えていました。それはそれとしてまだまだ頑張りますけど、『限られた時間』という意識が強くなっていて、『何をするか』ではなく『どう生きるか』をよく考えます。『俺たちの旅』でカースケ役の俺が『今日一日、精いっぱい生きろ』と言うんですが、まさに、それなんじゃないかと思っています」

 

なかむらまさとし
1951年2月1日生まれ 宮城県出身 1970年、慶應義塾大学経済学部入学。1973年、大学在学中に文学座附属演劇研究所に入所。1974年、『われら青春!』(日本テレビ)の主役に抜擢される。同年、挿入歌『ふれあい』で歌手デビューし、100万枚超のヒットを記録。『中村雅俊 Billboard Live 2023 ~The Look Of Love~』(横浜6月29日、大阪7月6、7日、東京7月20、21日)が開催される

 

【三好屋】
住所/東京都豊島区長崎4-31-3
営業時間/18:00~22:30
定休日/日曜、祝日、木曜

 

写真・野澤亘伸

( 週刊FLASH 2023年5月9日・16日合併号 )

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