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宮崎駿監督はどう生きたか 兄弟ゲンカに「日本刀」持ち出し、「クソコーナー」と自嘲した東映動画時代

エンタメ・アイドルFLASH編集部
記事投稿日:2023.07.25 06:00 最終更新日:2023.07.25 06:00

宮崎駿監督はどう生きたか 兄弟ゲンカに「日本刀」持ち出し、「クソコーナー」と自嘲した東映動画時代

2020年11月、本誌記者が『鬼滅の刃』の空前ヒットについて尋ねに行くと、ゴミ拾いに勤しみながら心境を語っていた

 

「彼とは『竹刀の構え方はこうだ。いや違う』と、喧々諤々のやり取りをしましたね。とにかく彼は頑固でしたね」

 

 スタジオジブリの宮崎駿監督(82)との思い出を、アニメーターの香西(こうざい)隆男氏(86)に尋ねると、剣道を題材にしたテレビアニメ『赤胴鈴之助』(フジテレビ系、1972~1973年放送)での出来事を教えてくれた。

 

 

 香西氏は1960年に東映動画(現・東映アニメーション)に入社し、宮崎監督は1963年入社の後輩。互いに独立した後、『赤胴鈴之助』の作画に携わっていた。

 

 それから50年、宮崎監督は変わらぬ頑固ぶりで、10年ぶりの新作長編『君たちはどう生きるか』を世に送り出した。

 

 異例の “宣伝ゼロ” で公開されたが、4日めまでの観客動員数は最大のヒット作『千と千尋の神隠し』(2001年公開)を上回り、早くも興行収入200億円超えが期待されている。

 

 吉野源三郎の同名小説から取ったタイトルのように、観客に大きな問いを投げかける同映画。では、宮崎監督自身はどう生きたのか――。

 

 東京に生まれた宮崎監督が6歳のとき、母親が結核菌による病気で寝たきりになったことで、宮崎家の運命は変わり、父親はほとんど男手ひとつで、血気盛んな4人兄弟(宮崎監督は次男)を育てた。宮崎家の四男・至朗氏は当時について、過去にこう記していた。

 

《取っ組み合いは日常茶飯事、障子や襖はしょっちゅう破れていたし、日本刀を引き抜いて庭に跳び出したこともあった。(中略)母親の目が届かなかったからだと思う。そのぶん逆に、母親の前ではケンカしなかった。兄たち三人は、いずれも自己主張が強く、たがいに譲らず、負けん気十分だった》(『魔女の宅急便 アニメージュ特別編集ガイドブック』の「兄・宮崎駿」より)

 

 頑固さの原点のような兄弟との生活の一方で 《内向的、ひ弱な感じ、スポーツはニガ手で、好きなのは本を読むこと、絵をかくこと》(同前)といった少年だった。

 

 その後、長兄と同じ学習院大学に進学しながらも、アニメの世界を志して、前述のとおり東映動画に入社し、その第一歩を踏み出していく。

 

『東映動画史論』の著者で、開志専門職大学准教授の木村智哉氏はこう話す。

 

「宮崎さんは入社して間もなく携わった長編アニメ『ガリバーの宇宙旅行』(1965年公開)のラストシーンで、早くも自分のアイデアが採用されています。そういった資質を示していたと思われます」

 

 しかし、当時は会社を二分する状況が起きていた。

 

「当時の東映動画は、有望な新事業だがペースが速いテレビアニメに力を入れていました。反対に宮崎さんら長編アニメ担当は、テレビアニメ担当に比べて『仕事をしてない』『能力がないから制作が進まない』と会社から思われているだろう、という自嘲の意識があったのでしょう。そのため制作が遅れた『太陽の王子ホルスの大冒険』(1968年公開)のころ、宮崎さんは自班を『クソコーナー』と自称していたそうなんです。長編アニメ担当の自負と居直りの感情から出た言葉だと思います」(同前)

 

 不遇をかこつものの、宮崎監督ほどの才能であれば、自分に揺るぎない自信を持っていたのではないかと思えてしまうが、「そうではない」と語るのは、高畑勲・宮崎駿作品研究所代表の叶精二氏だ。

 

「集団創作の末端ですから、新人の宮崎さんがメインスタッフとして力を発揮するまでに数年かかりました。東映動画には、才能あふれるアニメーターや労働組合の仲間たちが集結していました。

 

 同世代と漫画映画の技術を競い、夜を徹して理想を議論する日々のなかで、創作の核が少しずつ形成されたのだと思います。監督となった以降も、尊敬する先輩アニメーターの森康二さんが作品をどう評価されるかを、たいへん気にされていました」

 

 東映動画時代に宮崎監督が労組の書記長を務め、同時期の副委員長が高畑勲氏だった1年がある、という逸話も知られている。目先の稼ぎに誘導しようとする会社に対しては、こんなふうに毒づく思いが……。

 

「賃金格差があった当時を振り返り、後年の宮崎監督は『札束を追うやつ』と、それを『冷ややかに見て腹をすかしているやつ』に社内が分かれてしまった、と苦々しく述懐したことがありました」(木村氏)

 

 意外にも鬱屈とした心情を抱えていた宮崎監督は、1971年に東映動画を退社。高畑氏らと多くのアニメ作品を手がけることになる。その後は、広く知られたとおりだ。

 

「結局、我々アニメーターは “下請け” だけど、それを超えて宮崎さんは作家になった。卑下していたかもしれないけど、東映動画時代から間違いなくエリートだった。異質なくらい腕が違いましたよ」(前出・香西氏)

 

 とにかくこれから長生きしていただきたい。

 

 資料協力・叶 精二

( 週刊FLASH 2023年8月8日号 )

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