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浅田美代子 恩人・樹木希林さんと過ごした45年「おごらず、人と比べず、面白がって」スマホで見返す“寄り添いの言葉”

エンタメ・アイドル 投稿日:2023.09.17 11:00FLASH編集部

浅田美代子 恩人・樹木希林さんと過ごした45年「おごらず、人と比べず、面白がって」スマホで見返す“寄り添いの言葉”

浅田美代子

 

 渋谷の道玄坂と文化村通りを結ぶ抜け道としても知られる「道玄坂小路」。その細い路地の中ほどに、赤煉瓦づくりのどっしりとした建物が印象的な台湾料理店「麗鄕」がある。創業は1955年。本場の味が楽しめることから芸能界やスポーツ界にもファンが多い。女優・浅田美代子もその一人。

 

「お友達と渋谷の映画館で映画を観たときは、必ず『麗鄕』さんでお食事をします。樹木希林さんともよく来ました。焼きビーフンが大好きで、こちらの名物料理の『シジミ』の汁をビーフンにかけて食べると美味しいと教えてくれたのも希林さん。懐かしいなあ」

 

 浅田は少し寂しそうな笑顔で店内をぐるりと見回した。

 

 気持ちがあれば、観ている方にも必ず伝わる

 

 高校2年生の秋、浅田は友人とバザーがおこなわれていた神宮外苑のいちょう並木を歩いていた。すると芸能事務所の男性から名刺を渡され、「芸能界に興味はありませんか?」と声をかけられた。

 

「当時、若い女性が連続殺人の被害者になる事件があったので怖くなって、家の電話番号を教えればこの場から離れられるかもと番号を教えたんです。そうしたら翌日には電話がかかってきました。私のどこがよかったのかなあ。今でもわからないです(笑)」

 

 熱心に誘われ、浅田の気持ちは少し芸能界に傾いていた。しかし両親は大反対だった。

 

「そのときにたまたまドラマ『時間ですよ』(TBS)のお手伝いさん役のオーディションがあり、すすめられました。

 

 両親からは『落ちるに決まっている。落ちたら二度と芸能界に入るなどと言うな』と言われながら受けました」

 

 応募者約2万5000人の中から見事に合格。翌日の新聞にはオーディション結果が載ることになった。

 

「通っていた高校は校則が厳しくて、芸能活動は禁止。退学になるのが嫌だったので、新聞が発売される前に私から退学届を出しました」

 

 演技経験はゼロ。浅田は演技指導を受けることになった。

 

「縁側ってあるじゃないですか。お手伝いさん役なので、そこの雑巾掛けを何回もやらされました。『これ、お芝居なのかなあ』って思いながら、人生初の雑巾掛けを続けました。撮影で困ったのは、舞台が銭湯でしょ、カメラは “下” を映しませんけどお客役の皆さんは全裸です。だから私には丸見え。どこに目をやっていいのかわからず床ばかり見ていたら、希林さんが『従業員なんだから恥ずかしがってちゃダメなのよ』って。そう言われても私、17歳でしたから」

 

 番組では劇中歌の『赤い風船』を歌った。これが大ヒットして1973年の「第15回日本レコード大賞新人賞」を受賞。しかし、独特な歌い方がものまねのネタにもされた。

 

「新人賞は一生に一度のことなので嬉しかったですけど、歌は本当に苦手だったんです。ものまねされて『あ~、やられた』『私、こんなにヘタなの?』と思っていました」

 

『時間ですよ』を経てTBSのヒットメーカー、久世光彦プロデューサーのドラマに欠かせない存在になった。久世氏からは多くを学んだ。

 

「台本に『泣く』と書いてあっても『泣こうとする芝居』はしなくていい。『泣く気持ち』が大切。気持ちがあれば観ている方に通じる、というアドバイスは今も大切にしています」

( 週刊FLASH 2023年9月26日・10月3日合併号 )

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