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いっこく堂、俳優の夢破れ、 “図書館” で学んだ無双の芸「目標は一家で見られる腹話術」
エンタメ・アイドルFLASH編集部
記事投稿日:2023.12.03 11:00 最終更新日:2023.12.03 11:00
「自宅がお店と同じ板橋なので、15年以上前から家族でよく来ています。8年前にこちらの広い店に移り、自家製パスタもできるようになりました。イタリアンがメインですが、オーナーさんがバングラデシュ出身なのでベンガル料理もカレーも絶品です」
笑顔のいっこく堂は「僕、お酒が飲めないんです」とバナナシェイクを飲み、焼きたてのナンをカレーにつけた。
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「沖縄県のコザ市、今の沖縄市で育ちました。
沖縄が1972年に本土復帰したとき、僕は小学3年生でした。ドルが円になり、車は左側を走る。『これからは日本人になるんだ』と思いました。大人たちは不安があったようですが、子供たちはいつもどおりでした」
家の向かいに『ドゥチュイムニィ』のヒットで知られるフォークシンガーの佐渡山豊が住んでいた。
「全国放送のテレビ番組にも出演するほどで、のちに長渕剛さんも大きな影響を受けたと語っていました。佐渡山さんの活動を見ていたので『将来、やることがなかったら “ゆたかぁにぃぃ” のように芸能の仕事をすればいい』と簡単に考えるほど芸能界を身近に感じていました」
中学卒業を控え、いっこく堂は「役者になりたい」という夢を抱くようになる。タイミングよく、地元に演技を指導するプロダクションができたことを知り、オーディションを受けた。
「受かったんです。『やった、役者の才能があるんだ』と舞い上がりました」と笑う。
しかし、わずか1年でプロダクションは閉鎖。高校を卒業したいっこく堂は、横浜放送映画専門学院(現・日本映画大学)俳優科に入学した。
映画評論家の淀川長治氏が映画解説をするなど授業は充実していたが、ダンスやお囃子など自分に合わない授業もあり「楽しくなかったんです」と振り返る。
鬱々とするなか、高校時代に『笑ってる場合ですよ!』(1980~1982年、フジテレビ)のものまねオーディションで合格したことを思い出した。
「オーディションは沖縄でしたが、試験と重なりテレビ出演はできなかったんです。
プロデューサーさんに電話してそのことを話したら『覚えています。出演してください』と出演がかない、『ザ・ぼんちのものまねグランプリ』でグランドチャンピオンになりました」
これがきっかけになり、入学6カ月で学院を中退。芸能事務所に所属した。
「『ものまねで有名になれば、夢だった俳優になれるかな』と期待しましたが、いただく仕事はキャバレーやお祭りの司会。箱根の旅館に1カ月住み込んでショーの司会をしたこともありました。(旅館の仕事では)階段下の小部屋ですが寝る場所があり、食事も無料だったのでありがたかったです。だけど、『俳優の仕事をしたい』という思いは強く、授業料が無料の『劇団民藝』の入所試験を受けました。そうしたら合格。試験運がいいみたいですね」
だが、次第に劇団での活動も疎ましくなってしまう。
若手は稽古のほかに「大道具」などの仕事がある。不器用ないっこく堂は、大工仕事が苦手だった。劇団特有の集団行動も苦痛。特に酒席には気が滅入った。
そんないっこく堂に劇団の重鎮・米倉斉加年(よねくらまさかね)氏が人生を決定づける助言をした。
「米倉さんが座長の旅公演で宴会がありました。そこで米倉さんは皆に『おもしろい芸をしたら金一封をあげよう』とおっしゃって、僕は劇団民藝を立ち上げた宇野重吉先生、柴田恭兵さん、志村けんさんのまねをしました。もちろん米倉さんのまねも。そうしたら優勝。米倉さんから『君は芝居をやっているときより、一人でやっているときのほうが生き生きしている』と言葉をかけていただきました。僕も芝居を続けるかどうかで悩んでいること、一人芸に興味があることを打ち明けました」
どんな一人芸をするかーー。
いっこく堂は、中学2年生のときにテレビのニュースで見た女性警察官の腹話術に感動したことを思い出した。
「『そうだ、腹話術だ』と目の前が明るくなりました。
しかし、腹話術のブームは去っていて、当時は隠し芸の位置づけ。教えてくれる人もいません。図書館で『だれにもできる腹話術』を借りて、それを参考に独学しました。そして最大の問題が『人形』です。これがないと腹話術はできませんから」
いっこく堂は、米倉氏の計らいもあり劇団民藝は「休団」という扱いだったので、劇団のメンバーと交流が続いていた。人形のことを照明担当の先輩にぼやくと、「俺が作ってやるよ」と請け負ってくれた。
「できあがったのが第一号の『カルロス』です。その後、『ジョージ』も作ってくださり、僕が夢見た2体腹話術がスタートしました」
満を持してイベント会社に営業電話をした。しかし「腹話術? あれはお金をとれる芸ではないでしょ」と相手にされなかった。そこで、イベント会社に出向き、「僕の腹話術を見てください」と実演した。
「次第にスーパーのイベントや地方企業のパーティなどからお声がかかるようになりました。そして1995年に『ポンキッキーズ』(フジテレビ)の『出てこい! パフォパフォ』に出演。それがきっかけで全国組織のおやこ劇場、子ども劇場に出演。年間250本のステージが2年続きました」
こうした活動が実を結び、いっこく堂の名前が全国に知られるきっかけが訪れた。1999年1月、『ニュースステーション』(テレビ朝日)が密着特集を放映したのだ。反響は大きく、海外公演のチャンスにも恵まれ、アジア・アメリカ・ヨーロッパなどの18カ国で公演をおこなうまでになった。
いっこく堂は、ベストの腹話術をするために日ごろ、どのような準備をしているのだろうか。
「腹話術はものすごく体力が必要です。だから週に6日、10kmのジョギングをしています。もともと走ることは好きで、気分転換にもなるしネタを思いついたりもします。それと腹筋も欠かせないですね」
60歳になっても腹話術のトップランナーでいられるのは、こうした努力があるからこそ。
「腹話術を始めたころは『終わった芸』なんて言われましたが、僕は『可能性は絶対にある』と信じて続けてきました。これからもっと、その可能性は広がると思っています。今は、『一家で見られる腹話術』という芸にしていきたいんです。
そして、計画しているのが『落語腹話術』。もっともっと、おもしろい腹話術を見ていただきたいです。
とはいっても、気負いみたいなものはないですね。流れにまかせています」
いっこく堂はひと息間を置き、「なんくるないさ(なんとかなるさ)、ですかね」と腹話術で語り、笑いを誘った。
いっこくどう
1963年5月27日生まれ 沖縄県出身 1986年、「劇団民藝」に入団。1992年、独学で腹話術を習得、「いっこく堂」として活動開始。美ら島沖縄大使、ちゃんぷる~沖縄市大使、板橋区観光大使としても活躍。12月4、6日に博多座(福岡市)で新作をまじえた『いっこく堂 2023ボイスイリュージョン』を開催。詳細はいっこく堂Official web siteにて
【レストラン パドマ】
住所/東京都板橋区大山東町16-5 コスモ和光VIII
営業時間/ランチ11:30~14:00、ディナー17:00~23:00(土・日曜、祝日11:30~23:00ともにL.O.22:30)
写真・野澤亘伸