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世界が認める “レミゼ俳優” 岡田浩暉 過度の発声練習で骨折も続けた練習「頑張った先には、きっと何かがあるんです」

エンタメ・アイドルFLASH編集部
記事投稿日:2023.12.17 11:00 最終更新日:2023.12.17 11:00

世界が認める “レミゼ俳優” 岡田浩暉 過度の発声練習で骨折も続けた練習「頑張った先には、きっと何かがあるんです」

岡田浩暉

 

 東京・上池台の商店街の先にある「ビストロ ラ・グロゼイユ」。俳優・岡田浩暉が常連になったのは、偶然だった。

 

「体調がかなり悪い日があり、家に帰っても一人暮らしで栄養のあるものも食べられない、どうにかしなきゃ! と思い立ち、気になっていたこのお店に飛び込んだのがはじめです。確かそのとき、『体力がつくものを食べさせてください!』と言って……」

 

 

 そこで出てきたのが、かぼちゃのスープだった。その優しい味の虜になったという。

 

「食べているうちにみるみる元気になっていって。心から温かくなる料理でした」

 

 今では俳優のイメージが強い岡田だが、デビューはバンドボーカルとしてだった。

 

「幼稚園のころからミュージシャンになりたくて、大学でも軽音楽部でバンドを組みました。ただ大学にはいろんな遊びがあってそっちもおもしろくて……。4年生になったとき、本当に音楽がうまくなりたいのかわからなくなってしまいました」

 

 悩んだ末、地元・群馬県に戻って就職をすることに。

 

「地元で就職したのですが、毎週、土曜日の午後に横浜でバンド活動をして、月曜日の朝方に群馬に帰って寝ないで仕事をするという生活を1年ぐらいやって。やはり音楽をやりたいと思うようになり、仕事を辞めて、音楽に本腰を入れるため上京しました」

 

 名刺代わりに作ったデモテープがレコード会社の目に留まり、当時すでにプロとして活動していた後藤友輔、佐藤鷹と「To Be Continued」を結成する。

 

「時代はバンドブームでしたが、僕らがやっているようなボーカルとツインキーボードのポップスの路線はウケなかったです」

 

 2年間ヒットが出ず、バンドは継続危機に。そんなときに舞い込んできたのが、ミュージシャンを対象にしたドラマオーディション。岩井俊二監督が撮影したMVが注目を集め、白羽の矢が立った。

 

「役者は3日やったらやめられない、という話を聞いていたので、やってみたいという気持ちはありました」

 

 慣れないオーディションは失敗続きだったが、中山美穂浜田雅功浜崎貴司が出演する『もしも願いが叶うなら』(1994年、TBS)に抜擢される。

 

「浜田さん、美穂ちゃん、浜崎、僕という毛利家のメンバーはいつも一緒で、楽しい現場でした。浜田さんが本当にかわいがってくれましたし。美穂ちゃんも普通なら楽屋に戻るところを、一緒の場所で話をしてくれていました。

 

 スタッフと共演者が毛利家の雰囲気を作ってくれたおかげで、素人だった僕は自然に芝居ができました」

 

 今もこの現場の楽しさが忘れられないという。

 

「音楽の世界は、ライブはお客様とダイレクトに交流できて楽しいのですが、制作の現場はかなりシビアなんですよ。それが、ドラマだとこんなに笑顔があふれていて楽しいのかと。まぁ、あのドラマで、あのメンバーだったというのも大きかったと思います。

 

 俳優のスタートダッシュで素晴らしい作品に出合えてよかったです」

 

 最初のころは、ミュージシャンということが邪魔をしてNGを連発した。

 

「プレッシャーがあったんですよ。『岡田、頼むぞ』という後藤と佐藤からの思いが強くて(笑)。たとえば、リハーサルではおちゃらけた演技をしていても、本番になると『このキャラだと僕らが奏でる音楽とのギャップが出る』と思って、キャラを変えて演技をして……。

 

 もちろんNGを出され、しまいには浜田さんに『えぇ加減にせぇよ』と怒られましたが。演じながらバンドのためにできることは何? と常に考えていました」

 

 そんな不安も吹き飛んだのが、劇中歌として歌った『君だけを見ていた』の大ヒット。

 

「僕らのバンドの曲がこんなに多くの人に聴いてもらえるなんて、かなり嬉しかったのを覚えています。後藤と佐藤も素直に喜んでくれました」

 

 バンドとして念願のヒット曲に恵まれ、さらに芝居の仕事も多く舞い込むように。

 

「その後、1年ぐらいはいろんな作品に出させてもらいました。コンビニに行ったら女子高生たちにキャーと言われて囲まれたり、気持ちはビートルズです。

 

 芝居で知った表現方法を音楽にフィードバックできることもあり、もっと芝居をしたいと思うようになりました」

 

 だが、2000年にバンドは無期限活動休止を宣言した。

 

「何を作ったらいいかわからない状態になり、ちょっと疲れてしまいました。ただ、またやりたくなるかもという思いで、解散でなく休止を選びました」

 

 そして、岡田は俳優としての道を歩むことを選んだ。そんなときに舞い込んできたのが舞台だった。

 

「舞台はスキルを磨いてきた人たちの場というイメージだったので大丈夫かな? と常に思っていました。

 

 なかでも『レ・ミゼラブル』は困りましたね。本格ミュージカルですから」

 

 ただ、歌って芝居をするというミュージカルには惹かれるものがあった。

 

「どちらも大好きなんですが、声の出し方からわからないんですよ。これは学ぶしかないと、隣で歌っている人の歌い方を見て、まねして、家に帰ってからも最低10時間はずっと発声練習をしていました」

 

 そんな岡田の体に異変が。

 

「急にボコッと肋骨が飛び出てきたんですよ。病院に行ったら、発声練習のしすぎで折れたのがわかりました。

 

 ただ、これで役を降ろされるのはイヤだと、動かさないように包帯でぐるぐる巻きにして練習を続けました。

 

 そうしたら、どうも肋骨をかばった発声になったらしく、初めて腹式呼吸で歌えたんですよ。これは奇跡でしたね」

 

 まさに、岡田が好きな言葉「人間万事塞翁が馬」どおりの展開に。

 

「『レ・ミゼラブル』の上演25周年を記念して全世界に向けたパンフレットが作られたんですよ。そのなかに、日本人ではなぜか僕だけが掲載されていたんです。あのときは嬉しかったです。頑張った先には何かがあるんだと実感しました」

 

 公演中の『ジャンヌ・ダルク』に出演するなど、舞台にも精力的に取り組んでいる。

 

「どんな役でも、役を掘っていくとおもしろ味が出てくるんですよ。もちろん、しんどいことも多いですが、こうしたら役が広がるかもと考えて動くことが楽しいです」

 

 最近は、自分を “俳優” と称することが多くなったという。そんな彼だが、2年前から「To Be Continued」の活動を再開した。

 

「リーダー(後藤)の作る音楽は変わっていなく、昔のままで嬉しかったです」

 

 さまざまな経験を携え、原点に返ってきた。すべてを糧にした彼の歌声がステージを沸かせる。

 

おかだこうき
1965年10月26日生まれ 群馬県出身1991年、バンド「To Be Continued」のボーカルとしてデビュー。1994年には『もしも願いが叶うなら』(TBS)で俳優デビューし、それ以降、数多くの映画、ヒットドラマに出演。また『ファントム』や『ジャンヌ・ダルク』など舞台にも精力的に出演している

 

【ビストロ ラ・グロゼイユ】
営業時間/完全予約制のため要相談 
定休日/月曜 
※2024年2月に移転予定

 

写真・木村哲夫

( 週刊FLASH 2023年12月26日号 )

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