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小学校時代には50隻の軍艦を…軍事評論家・小泉悠氏の“プラモ偏愛”人生、コロナ禍で再び過熱

エンタメ・アイドル 投稿日:2024.02.24 06:00FLASH編集部

小学校時代には50隻の軍艦を…軍事評論家・小泉悠氏の“プラモ偏愛”人生、コロナ禍で再び過熱

東大先端研准教授・小泉悠氏

 

「これは、ウクライナで今まさに使用されている戦車です。こんなにすぐプラモ化されるなんて、すごい時代だなあ」

 

「レオパルト2 A6 ウクライナ軍」のプラモデルを手に、よどみなく解説を始めたのは、ロシア軍事や国際安全保障の専門家で、東京大学先端科学技術研究センター准教授の小泉悠氏(41)だ。プーチン批判の急先鋒として、ウクライナ侵攻時からメディアで見ない日はない活躍ぶりだ。

 

 この日、秋葉原のプラモデル店「イエローサブマリン」のミリタリーコーナーを物色した小泉氏。購入したのは、思い入れがあるというソ連機「ベリエフVVA-14M1P地表効果実験機」だった。

 

 

「僕がソビエト兵器にハマるきっかけになった実験機なんですが、僕が学生のころは、その存在を知っている人自体がほぼいなかったんじゃないかな。初めてロシアに行ったとき、モスクワのモニノ空軍博物館に一機だけ残っていたこいつを見に行ったんですよ」

 

 ご満悦の小泉氏だが、軍事への興味のきっかけは、地元・千葉県松戸市にあるプラモ店だったという。自身のプラモ偏愛歴を明かしてくれた。

 

「僕の軍事マニアとしてのキャリアのスタートは、小学4年のときです。小学校の図書館に『戦艦武蔵のさいご』(童心社)という本があって、かなりマニアックな戦闘シーンや、艦内の生活などが書かれていました。でも僕は『戦争はよくない』と学ぶのではなく、『よし、軍艦のプラモを作ろう!』と思ってしまった(笑)。

 

 早速プラモデル店に行って、とりあえず目に留まった『妙高型 重巡洋艦 那智』を作りました。そこから狂ったようにずっと軍艦のプラモを作っていましたね。特に、第二次世界大戦時の軍艦に夢中で、50隻は作ったかな。スポーツも勉強もできない子供でしたから、小学校時代は『軍艦のプラモを作っていました』としか言いようがないです」

 

 中学校に上がると、プラモ熱はさらに燃え上がった。きっかけは、トム・クルーズ主演の映画だったという。

 

「中学校に入ったときに観た、『トップガン』にめちゃくちゃハマって、戦闘機に興味が移っていきました。米海軍の戦闘機乗りの映画なんですが、50回は観ました。主人公が乗る『F-14』のプラモは、『塗装を変えてみよう』といろいろ試して、10機ぐらい作ったと思います。中学校から高校までの間は、ずっと飛行機のプラモを作っていました。当時は、1997年にアメリカがイラクを、1999年にNATOがユーゴスラビアを空爆した時期。ちょうど僕が作っていた飛行機が現地で使われていて、正直興奮していましたね。今にして思うと愚かだったなあ」

 

 さらに、地元にTSUTAYAができたことで、軍事専門誌や軍事ものの映画を “摂取” 。興味の幅が広がっていったという。一方、プラモへの造詣を深めてくれたのは「隅っこで飛行機の絵を描いていればいいだろうと思って入部した」美術部の先生だった。

 

「高校では、少し真面目に絵を描いたんです。先生が理解のある方で、飛行機の絵を描いていたら『エアブラシとかを使って大きく描いたら?』と言ってくれました。さらに、油絵の描き方を教わったりして、けっこうおもしろかった。美術部では “質感” を描くことを教わり、プラモにも生かせました。たとえばプラモを塗るとき、金属部分なのか木なのかで、塗り方が大きく変わってくるんですよ」

 

 小泉氏のプラモ愛には、軍事への興味だけでなく、恩師から教わった絵画の技術が合わさっていた。だが、小学校から続いたプラモ作りは、大学進学を機に遠のくことに……。

 

「正直、友達と飲み会に行くほうが楽しくなっちゃいました(笑)。大学入学からは、プラモ作りの大きな空白期間なんです。かといって、勉強は全然真面目にしていませんでしたね。でも、軍事オタクはやめられないので、軍事誌はずっと読み続けていました」

 

 当時から「物書きになりたい」という思いはあったが、大学院修了後に一般企業に就職した。「『上司の頭をバットでかち割るのが先か、俺が物書きになるのが先か』と思っていた(笑)」というほど、当時の職場には馴染めなかったといい、1年足らずで退社。その後は「とにかく飲み代を稼ぎたいから」と、バイトの傍ら「月刊軍事研究」への寄稿を続け、原稿料を稼いだ。そのときの論文が、元駐ウズベキスタン大使の河東哲夫氏の目に留まり、2009年に非常勤の研究職に抜擢される。

 

「お金はなかったけど、この時期が、今振り返ってもいちばん楽しかったです。あのとき無理に再就職したり、もう1回大学院に行かなくてよかった。ただただ、オタクな研究を好きにできましたから」

 

 2009年から2011年まで、ロシアの研究所に在籍した小泉氏。2011年に帰国し、国立国会図書館調査員などを経て、2019年から東京大学先端科学技術研究センターに赴任する。

 

「今の妻とは、ロシアで出会いました。結婚してから、妻は『プラモデルなんて子供の趣味だ』と言っていて(笑)。子供ができると、なんでも口の中に入れてしまうので、よけいプラモは怖くてできない状況がずっと続いていました。ただ、心の底で “プラモ熱” はずっと燻ぶっていましたよ」

 

 その思いは、2020年のコロナ禍で再び花開くことになる。

 

「コロナ禍で暇になった数カ月間、朝から晩までプラモを作っていましたね。キットだけではなく、接着剤、エアブラシなど何から何までネットで買えたので、一式買いそろえました。そのとき作ったのは『スホーイ Su-35S』と、『MiG-31迎撃戦闘機』の2機。もう一機作ろうと思った矢先に多少仕事が戻ってきて、中断してしまいました。当時、勢いでキットを買いこんでしまったので、着手できていないものがたくさんあるんです」

 

 そんな小泉氏が考える「プラモの醍醐味」とはなんなのか。

 

「プラモ作りは、頭の中のイメージを物理空間に出力する作業です。たとえば米海軍では、『飛行機が錆びたらすぐに上塗りしろ』と厳しく言われているので、実物の機体は塗りムラが激しいんです。もともと一色で塗られていたところが、斑状に塗り重ねられている。そういう『実態に即した細部』を表現していくことに独特の快感があって、無我の境地になれる。飛行機の金属むき出しの部分を再現したくてひたすら磨いていて、気づくと明け方4時……みたいなことも(笑)。ここまで夢中になれるものって、プラモ以外にはあまりないですね」

 

 第一線で活躍する今の場所へ導いてくれたのは、松戸のプラモ店で手にした「重巡・那智」だったのかもしれない。

( 週刊FLASH 2024年3月5日号 )

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