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日航機墜落もロス疑惑も現場で取材…須田哲夫、フジテレビの “報道の顔” となって「正直つらかったこと」とは?

須田哲夫は77歳になった今も、ニュースを欠かさず観ている
参院選ではフェイクニュースが飛び交い、SNSが世論を揺さぶった。そんな今、テレビでニュース報道を支えた人気キャスターが「現場」から語る。「バズる」よりも大切なのは、カメラの向こうに「伝える」矜持なのだ!
「僕は、ニュースを読むキャスターになりたくてフジテレビに入りました。でも当時の局内には、『アナウンサーが原稿を読むだけの時代は終わる』という空気がありました。報道も “見せるもの” だという『ニュースショー』へと変わっていく、そんな時代の転換点だったんでしょうね」
フジテレビに在籍した48年間、須田哲夫(77)はマイクを通し、 “生の空気” を伝えてきた。
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「ホテルニュージャパン火災(1982年)、日航機墜落事故(1985年)など、記憶に刻まれる大事件では、必ず取材へ行っていました。寝ずに現場に詰める日々でも、『これが伝えるということだ』という手応えがありました」
だが、深刻な現場を多く担当するなかで、予期せぬかたちで自分の立ち位置を突きつけられることもあった。
「現場で僕を見て、泣き崩れる人がいたんです。『須田さんが来たってことは、人が死んだんだ』と。そんなふうに見られていたのは、正直つらかったですね」
なかでも印象に残るのが、『おはよう!ナイスデイ』(1982~1987年出演)での「ロス疑惑」の三浦和義氏をめぐる取材だ。
「彼とは同学年なんです。大勢の記者が殺到するなか、ある日、僕が彼の家のインターホンを押したら、突然話してくれました。『(妻の殺害疑惑について)保険金目当てだったんですか?』と聞いたら、すごい剣幕で怒って切られましたけどね。
でも、そのやり取りをきっかけに、『須田が相手なら話すかもしれない』という空気が局内に生まれ、ヨーロッパ、グアム、ロサンゼルスまで三浦氏を追いました。彼は言葉を武器に、自分の存在を誇示したがる人物でした。だからこそ、ただの伝言係にはならないという気概を持って、取材に臨んでいました」
須田は71歳まで現場に立ち続け、引退後もテレビのニュースは欠かさず観ている。
「最近は『テレビは作りものだ』と思う視聴者も多い。だからこそ、今必要なのは “生放送” だと思うんです。編集されたVTRではなく、現場の空気をそのまま伝える “ライブ” こそ、テレビの生き残る道じゃないでしょうか」
各局のニュースの報じ方を見比べるのが楽しい、と須田。「趣味みたいなものですよ」と笑う、根っからの報道人だった。
須田哲夫
1971年、フジテレビ入社。報道番組で活躍し、ニューヨーク支局赴任、アナウンス室部長や役員待遇エグゼクティブアナウンサーなどを歴任し、2019年に退社
写真・木村哲夫