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イエローキャブ破産!かとうれいこ、小松みゆき、山崎真由美ら8人が語る舞台裏「野田義治さんはお父さん、そして同志」

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記事投稿日:2025.08.10 06:00 最終更新日:2025.08.10 07:33
出典元: 週刊FLASH 2025年8月19日・26日合併号
著者: 『FLASH』編集部
イエローキャブ破産!かとうれいこ、小松みゆき、山崎真由美ら8人が語る舞台裏「野田義治さんはお父さん、そして同志」

左からかとうれいこ、小松みゆき、山崎真由美

 

「そんな話、聞いてねーぞ?」

 

 元イエローキャブ社長の野田義治(79)は、自分が立ち上げた伝説の芸能事務所の顛末を、把握していなかった。

 

 2004年に同事務所を離れてから、サンズエンタテインメントを率いる野田。その後イエローキャブの経営権は転々とし、直近では全国10カ所以上で「イエローキャブ」をフランチャイズ(FC)展開していた。

 

 だが7月2日、運営会社が東京地裁より破産手続開始決定を受けた旨を、東京商工リサーチが短く伝えたのだ。

 

 

「FCビジネスって何? 俺の知らぬ間にイエローキャブの名が独り歩きしてたわけ?」

 

 1980年に前身会社が設立されたイエローキャブの経営を引き継いだ野田は、1983年に元祖巨乳グラドルの堀江しのぶさんを発掘。1988年に堀江さんはがんで亡くなったが、ピークの1994年1月期には売上高約9億円の大手事務所へと成長させた。ブームを牽引したのは、1988年にスカウトした、かとうれいこ(56)だった。かとうが往時を振り返る。

 

「デビュー時は別の事務所にいて、野田さんに熱心に口説かれ、すぐイエローキャブに移籍したんです。芸名をつけてくださったのも野田さん。野田さんがお好きだった大原麗子さんにちなんでいます」

 

 ひらがなの優しい芸名どおり、穏和な面差しと好対照のダイナミックなボディは、たちまち日本中の男子を虜にした。1990年にデビューした “妹分” 細川ふみえ(53)とともに、「イエローキャブ=巨乳アイドル軍団」というイメージを築き上げた。

 

「もともとは歌手になる夢を抱いていたんですが、当時はアイドルも水泳大会で水着になっていましたし、グラビアに抵抗はありませんでした。野田さんは私を見つけて育ててくれたお父さんであり、いろいろなハプニングを乗り越えてきた同志でもありますね」

 

 野田は、先ごろ亡くなったいしだあゆみさんらのマネージャーとして辣腕を振るい、このころは自ら、現場についていた。だが、かとうによれば、勢い余って「ダブルブッキングもしばしば」だったとか。

 

「地方ロケからヘリを飛ばして東京に戻り、穴をあけずにすんだこともあります。初めてヘリに乗ったのに、間に合うかどうか気がかりで、まさに上の空(笑)。その後、お仕事で行ったニューヨークでもヘリに乗る機会をいただき、ようやく夜景を存分に楽しめました」

 

 今年56歳になったかとうは、10月には27年ぶりとなる写真集を刊行する。

 

「私のグラビア時代を知らない、まだ30代の女性編集者からの提案でした。イエローキャブのころは、明るく開放的な写真が同性にも支持されたと思います。今回は、もっと女性の目を意識しています。撮影では、久しぶりの水着を最初は恥ずかしがっていて、次第に表情が柔らかになっていくのが、自分でもわかりました。そんな変化を楽しんでいただけたら嬉しいです」

 

“三つ子の魂百まで” は、54歳の小松みゆきにもいえた。カメラを向けると、表情はくるくると艶っぽくも可憐にもなる。1990年に19歳でデビューした翌年には大胆なヌードを披露し、写真集やイメージビデオを連発してきただけのことはある。

 

 そんな小松は1994年から1年、イエローキャブに在籍した。入所前に籍を置いた事務所で小松は、AV出演を前提とした契約書にうっかりサイン。撮影現場で気づくと、4日間の予定を1日半で切り上げて雲隠れした。

 

「実家に逃げ帰っても、黒塗りの車が押しかけてきました。1年間、皿洗いや引っ越しなど、アルバイトを転々とし、息を潜めて暮らしていました。そこで思い出したのが、1991年に最初のイメージビデオに出たときのこと。イエローキャブ所属のコも一緒だったのか、立ち合っていた野田さんが『何かあれば連絡してくればいい』とおっしゃってくださったんです」

 

 急成長を遂げたイエローキャブの庇護下に入ると、執拗な嫌がらせはふっつりやんだ。それまでの「美幸」から現芸名に変え、在籍は1年ながら、4冊の写真集と5本のイメージビデオ、3作のVシネマに出演した。

 

「以降は活動の場をドラマや映画に求め、いくつかの事務所に所属しました。2015年に当時の事務所の社長が亡くなったときも、次に落ち着く先が見つかるまで、野田さんのサンズに2年ほどお世話になったんです」

 

 小松が野田のことを「業界の大恩人」と言うゆえんだ。

 

■引退から20年、「よくやったな」野田からメッセージが

 

 かとうや雛形あきこ(47)と同様、野田が早くから盛んに勧誘し、イエローキャブに移籍させたタレントの一人が、山崎真由美(53)だった。

 

 1986年、中学3年生でおニャン子クラブの中学生版、B組のメンバーに。卒業後はグラビア誌で新鮮な色香を振り撒き、1991年にはセミヌード写真集も出した。

 

「ただ、出版の経緯に納得がいかず、しばらく活動をお休みしてLAとの行き来を繰り返していました。じつは、その旅費を出してくださったのが野田さんだったんです。でも、途中から『写真集のロケ隊を連れていくから』って。しかもその後、『スーパージョッキー』(日本テレビ系)のレギュラーが決まったら『すぐに戻ってこい』。ともかく強引なんですよ(笑)」

 

 イエローキャブでは、細川と藤崎仁美さん(引退)とでLADY’Sを結成。ソロでシングルを出した。

 

 しかし、1994年の結婚を機に引退。「結婚したら家庭第一」という野田の考えに従い、人前に出るのは趣味のハワイアンキルトをカルチャーセンターで教えるときぐらいだった。ところが、10年前の離婚が転機となった。

 

「娘も早い時期にバンド活動を始めて独立し、今は好きなことをやろうと、2019年にYouTubeチャンネルを開設しました。3年ほど前からほぼ毎晩、TikTokライブで昭和アイドル歌謡を配信中です。グラビア復帰? フルヌードじゃなければぜひとも(笑)」

 

 一方、「本宮純子」の芸名で活躍した大坪紗耶(43)は、九州でモデル活動後、高校入学を機に上京。中山美穂さん、山口智子、石田ゆり子らと同じ事務所に所属し、「ヤングマガジン」の表紙を複数回飾った。

 

 フジテレビ系ドラマシリーズ『美少女H』(1998〜1999年)では、のちにイエローキャブの同僚となる小池栄子(44)や佐藤江梨子(43)とともに、ヒロインの一人に。相手役は、今や大人気の高橋一生だった。

 

「でも、高校で同級だった鈴木亜美ちゃんと比べたら、嫉妬心も起きないほど売れずじまい(笑)。中途半端な覚悟でいたからだと思います。2002年にイエローキャブに移り、小林恵美ちゃん(42)らと大磯ロングビーチのキャンギャルを務め、深夜バラエティにも出させてもらいましたが、グラドルとしてはパッとしませんでした」

 

 大坪は22歳で引退を決意。栄養士として働いた後、東京女子大学で哲学を学び、30歳で子育てのため出身地の佐賀に戻った。そして2021年、イベント制作会社を立ち上げた。

 

「今はミスジャパン佐賀の運営に携わり、2023年には日本大会でグランプリを出しました。グラドル時代にお世話になった写真家の山岸伸さんが大会のオフィシャルフォトグラファーを務めていらっしゃって、ご自身のブログで私のことを書いてくださったんです。それをご覧になった野田さんからも、『よくやったな』とSNSにメッセージをいただき、とても感激しました。仲のよかった(小池)栄子ちゃんをミスジャパン佐賀のゲストに呼ぶことが目標ですね」

 

 2005年放送の『魔法戦隊マジレンジャー』(テレビ朝日系)にマジピンク役で出演した、別府あゆみ(42)もやはり移籍組だ。地元・大阪の事務所に所属し、朝番組のレポーターを務めているころ、フジテレビの月9ドラマのヒロインオーディションを受け、最終選考まで残ったのを機に上京。女優部門に力を入れようとするイエローキャブに移籍した。

 

「イエローキャブへの加入は、野田さんがサンズに移られた直後ですが、パーティでご挨拶したところ、私のブログを読んで気にかけてくださっていたことを知り、とても感激しました。さらに『ウチのコです、よろしく』と、周囲に一緒に挨拶にまわってくださったんです。その後、2007年放送のNHK連続テレビ小説『どんど晴れ』の主役選考でも最終まで残り、主演の比嘉愛未ちゃんの親友役を演じることができました。結果的に、私はイエローキャブで唯一、水着になっていないタレントなんですよ」

 

 福岡に移住し、子育てのかたわらCMを中心に芸能活動を続ける別府。野田とのやり取りが、今でも励みになっているという。

 

 イエローキャブで野田の薫陶を受けた最後の世代と言える佐藤聖羅(33)は、SKE48の1期生だ。彼女は2002年にイエローキャブ・ナゴヤが設立された際、開かれた公開オーディションにわずか10歳で参加。準グランプリを射止めたのが芸能活動の皮切りだ。

 

「今はGカップありますが、このときすでにCカップだったんですよ(笑)。当時はモーニング娘。の全盛期で、小学校のクラスではプッチモニや加護(亜依)さん、辻(希美)さんの話題ばかり。同級生が何人もオーディションを受けていました。ところが私は、野田さんファンの父の “英才教育” で(笑)、小池さんやMEGUMIさんが出演する番組ばかり見せられて、憧れていました」

 

 グラドルになるべく親に仕向けられた佐藤。より活躍できる場を求めて、父はサンズにあらためて書類を送り、今度は週末、東京へレッスンに通う日々となる。長期の休みには寮生活を送った。小林恵美や瀬戸早妃(現・咲嬉、40)らとは、そこで一緒だったという。

 

「2008年にSKEができたときにオーディションを受け、野田さんに手紙で合格を報告して事務所を移籍しました。結局、ダンスや歌は苦手で選抜には選ばれませんでしたが、6年間グループのグラビア担当として頑張りました」

 

 佐藤は、所属タレント一同が集められ、丸一日かけて宣材写真を撮った日が忘れられないという。自分の順番は遅かったが、スタジオに早く来て、先輩たちの撮影を見学するよう野田に言われたのだ。

 

「マナーはもちろん、表情やポーズのつけ方、また先輩たちの動きを見て “正解” はそれぞれの個性に応じて変わることも、そこで学べました」

 

 その撮影担当は、前出の山岸伸(75)だった。野田とは盟友と呼ぶべき間柄だ。山岸は2人がいつ出会ったかの記憶は曖昧だというが、自分が起用され続けた理由をこう推し量る。

 

「僕の写真が明るくて、くっきりしているからでしょう。はっきりしているのは、俺も野田さんも、所属のコの魅力や価値を少しでも上げたいと、心をこめて接していたことだね。イエローキャブは、ナベプロやホリプロみたいな巨大な事務所になっていてもおかしくなかった。だけど、野田さんという人は根っから愚直で、経営者というより “生涯一マネージャー” なんだよ」

 

 こうしてイエローキャブOGや関係者に話を聞くと、揃って野田の “暴君ぶり” や “独断専行” を懐かしそうに、「どうしても憎めない」といった調子で話すのだ。

 

「いや、俺は嫌われているよ。みんな言うもん、俺に騙されたって。こっちも、どんどん好きに言ってかまわないよ、と伝えているからね」

 

 そう露悪ぶる野田だが、本誌が取材したOGたちが元気にそれぞれの道を歩んでいることを聞き出すと、心底嬉しそうな表情になる。今回、「イエローキャブ」が消滅の危機に瀕していることを、残念には思わないのか。

 

「全然思わないよ。だって、俺こそがイエローキャブだもん。俺がくたばらない限り、イエローキャブは走り続けるんだから」

 

取材/文・鈴木隆祐

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