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「有吉弘行は芸人としての能力ゼロだった」と『電波少年』プロデューサー
エンタメ・アイドルFLASH編集部
記事投稿日:2019.07.07 11:00 最終更新日:2019.07.07 11:00
1992年にスタートし、平成を代表する伝説的番組『進め!電波少年』(日本テレビ系)は、猿岩石のユーラシア大陸横断ヒッチハイクをはじめ、数多くの人気企画を生み出した。その演出・プロデューサーを務めたのがT部長こと土屋敏男(62)だ。
元猿岩石の有吉弘行(45)は、いまや何本も番組MCを務める、超売れっ子芸人だ。そこで、当時の有吉はどんな芸人だったのか、土屋プロデューサーに聞いた。
――ユーラシア大陸横断ヒッチハイク当時(1996年)の有吉弘行さんの、芸人としての能力はどう感じてましたか?
土屋 ゼロ。ゼロですよ。
――そうなんですか?
土屋 ただスケジュールが空いてたってだけだからね。
――ではヒッチハイクが始まってからの有吉さんの印象は?
土屋 ヒッチハイクは視聴者から愛されるようにしないといけないから。VTRの編集のときに「態度悪いな」と思ったところを、全部編集で切らないといけないから、「めんどくせーな」と思ってました。だから今のキャラは、その当時からありましたよ。
――毒舌キャラは、ヒッチハイクの旅にはいらなかったんですね。
土屋 そうそう。最初は使えるところが少なくて。たばこを吸いながらヒッチハイクしてるし。でもそのうち、愚痴も出なくなったね。
本当に食えないから、食えるためだったら、丸坊主だろうが何だろうがやる状態になってくると、だんだんピュアな、きれいな目になってきて。態度もよくなってきたから、使うところも増えました(笑)。
――どのあたりで有吉さんの面白さに気づきましたか?
土屋 いや、最後まで気がつかなかったです。ヒッチハイクから帰って来て、西武球場で単独ライブをやったんですよ。それが面白くなくて、お客さん全員が帰ったからね。それから1年間いろんなテレビに出たけど、結果を残せなくて。どんどんテレビの仕事がなくなって、歌も売れなくなって、その後、3年間仕事がゼロだから。
――そういう時期があったって、ご本人も言ってましたね。
土屋 そこから『内村プロデュース』(テレビ朝日系)のネコ男爵というキャラで出てきて。そこは俺は関係ないから、だから有吉には恨まれてるの。
――有吉さんが再ブレークしてから共演されてますよね。
土屋 俺のあだ名をつけるっていうので。「出たがり豚野郎」だったかな。
――土屋さんの前で言いづらいですが、有吉さん、さすがですね(笑)。有吉さんは人気が落ちたときに、土屋さんが助けてくれなくて恨んでるような発言をしてませんでしたか?
土屋 そうそう。ヒッチハイクに行かせたことを恨んでるんじゃなくて、人気が落ちた後に、なんの援助もしなかったことを恨んでるんですよ。そんなの知らないよね。
西武球場で別れたときに「お前らは今面白くないから、このまま売れるってことは絶対にないよ。お前らが本当にお笑い芸人になりたくて続けていたら、10年後に会おう」って言ったんだから。
――10年後と言えば、くしくも有吉さんが『アメトーーク!』
(テレビ朝日系)で品川(祐)さんのことを「おしゃべりクソ野郎」と呼び、再ブレークのきっかけになった時期ですよ。
土屋 また這い上がって来て、一個一個の仕事をすごい丁寧にやるようになったわけじゃない。それで今の位置になった。それはすごいなと。
なんですごいかっていうと、俺は有吉を上の位置まで持っていったわけじゃない。でも底に落ちて、ツラいわけですよ。ずっと売れない奴は底にいてもツラくないわけ。有吉は一回上に行ったからツラいわけ。
一回上に行った経験がなければ、落ちたときに頑張んない。俺が上まで持っていったから、また上まで行けたということを、有吉はわかってない。だから、まだまだだよ(笑)。
――今の有吉さんがあるのは土屋さんのおかげということですね(笑)。
土屋 まぁね(笑)。
――そんな土屋さんが、今度、最先端技術を使った新しいイベントを仕掛けるそうですね。
土屋 「NO BORDER」という誰でも楽しめるコンテンツです。3Dスキャナーを使って3Dアバターを作成、観客自身がアバターとなって、ステージ上でダンスを踊れます。
※土屋氏がプロデュースするライブエンタメ『NO BORDER』は、7月7日から9月16日まで、大阪クールジャパンパークで開催
取材・文/インタビューマン山下
1968年、香川県生まれ。1992年、世界のナベアツ(現・桂三度)とジャリズム結成、2011年に解散。同年、オモロー山下に改名し、ピン活動するも2017年に芸人を引退。現在はインタビュアー・お笑いジャーナリスト