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梶原善「おもしろいことをやれ」三谷幸喜に誘われた役者人生
エンタメ・アイドルFLASH編集部
記事投稿日:2019.10.12 11:00 最終更新日:2019.10.12 11:00
東京・四谷の裏通り。「たいやきわかば」の店先に、俳優・梶原善(53)の姿があった。
「ここのたい焼きは、しっぽまでぎっしり、あんこが詰まっているんです。塩加減が絶妙で、最近は、あんこだけ買うことが多いですね」
「わかば」に通って、25年以上になる。建設現場でのアルバイトの帰りにバイクで立ち寄っては、たい焼きを2個ずつ食べた。そのころから変わらない味を求めて、いまもときどき訪れる。
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「子供のころ、(松田)優作さんやショーケン(萩原健一)さんのドラマを観て『テレビや映画に出る人になりたいな』と。でも、いまこうしてやっていけるのは、ひと言で言えば、『運がよかったから』ですね。さまざまな偶然の出会いがきっかけで、道が開けてきたんです」
岡山出身。岡山理科大学附属高校では、当初、少林寺拳法に打ち込んだが、稽古漬けの毎日にあえなく挫折。次に熱中したのが音楽だった。
「コミックバンドでしたが、わりとウケて、人前に出る快感を覚えてしまった(笑)。このとき、知り合ったのが、のちに忌野清志郎さんのバンドメンバーになる、山川のりをくん(53)でした。いま思えば運命の出会いでしたね」
バンドではボーカルを担当。地元のテレビ番組にも出演した。だが、そのときはまだ、その後の運命を知るはずもない。高校卒業後、上京して入ったのが、服飾専門学校の「東京デザイナー学院」のスタイリスト科だった。
「両親に『役者になりたい』と言ったんですが、そんな雲を掴むような話、『いいよ』と言うわけがない。次に興味があったのが、洋服だったんです。ブランド全盛期で、男のスタイリストも活躍しはじめた時代でした。学校には2年間、ちゃんと通いましたよ」
当時、梶原が住んでいたのは、渋谷区の笹塚だった。駅まで徒歩20分、四畳半の家賃は2万5000円。
「共同トイレの前に、なぜか『女人禁制』と書いてあって(笑)。その部屋は、学校の課題で洋服を作るのに狭すぎて、その後に何度か引っ越しましたが、風呂つきの部屋に住めるようになったのは、30歳手前でした」
その後の人生を大きく変える出会いがあったのは、この笹塚時代だ。当時、下北沢の中華料理店「江戸っ子ラーメン□亭(□の字は王に民)」では、ミュージシャンや俳優を志す若者たちがアルバイトしていた。梶原も一時、バイトしたことがある。
「毎日2食たべられるし、給料は日払いでしたから、1週間食いつなぐことができた。当時好きだったのは、『北海ラーメン』。肉味噌ともやしに、バターがのっているんです」
「□亭(□の字は王に民)」には、山川や、山川の岡山時代のバンドの先輩で、のちにザ・ブルーハーツを結成する甲本ヒロト(56)、駆け出しの俳優だった松重豊(56)もいた。その松重に紹介されたのが、「東京サンシャインボーイズ」を主宰していた三谷幸喜(58)だった。
「松重さんはすでに、東京サンシャインボーイズに何度か出演していて、三谷さんに『岡山出身のへんな奴がいる』と、僕のことを話してくれていたんです。田舎の狭いつながりが、偶然の出会いによって広がっていったんです」