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住所不定だった男が名脇役に…利重剛が語る映画、母、そして横浜

エンタメ・アイドル 投稿日:2019.11.02 06:00FLASH編集部

住所不定だった男が名脇役に…利重剛が語る映画、母、そして横浜

 

 みなとみらい、赤レンガ倉庫、海ほたるパーキングエリア――。そのすべてを見渡せる横浜の湾岸にある、レストハウス「象の鼻テラス」。通りには歴史ある建物が並び、少し足を延ばせば中華街だ。

 

「横浜って空が広くて海も近いでしょ。ここに来てソフトクリームを舐めてコーヒーを飲んでると、『どうにかなるか』って気分になるんです。煮詰まるってことがないんです。ここのソフトクリームは、お袋も大好物なんですよ」

 

 

 そう語るのは俳優利重剛(57)。2019年だけでも5本以上の連続ドラマや映画に出演している彼は、現在横浜を拠点に活動している。

 

「お袋が年をとって病気もしたので、なるべく近くにいようと、17年前に都内から横浜に戻ってきたんです」

 

 利重が親しみをこめて “お袋” と呼ぶ母は、『3年B組金八先生』シリーズ(TBS系)などで知られる脚本家、小山内美江子氏(89)だ。

 

「東京に行くのは、ドラマや映画の撮影のときだけ。リハビリ中のお袋を連れて、この店には月に数回は来ています。ソフトクリームを食べて景色を見ていると、お袋も僕も調子がいいんです」

 

 利重は、高校時代に頭角を現わす。在学中に監督した8ミリ映画『教訓I』が、1981年の「ぴあフィルムフェスティバル」に入選。そして、19歳でさらに大きな転機が訪れる。

 

「映画監督の岡本喜八さんにファンレターを書いたら、僕の映画を観て、連絡をくださったんです。監督の家に遊びに行ったら、分厚いシノプシス(あらすじ)を持ってきて『これ、一緒にやらないか』って」

 

 それがのちに利重の主演・共同脚本・助監督作となった、岡本喜八監督『近頃なぜかチャールストン』だ。

 

「監督の家に住み込んで、脚本を毎日一緒に書きました。僕が書いた台詞は2行しか採用されませんでしたが(笑)。僕は岡本喜八監督の最後の弟子なんです」

 

 このころ、岡本監督からある助言を受けた。

 

「『(助監督として修業し、やがて監督になる)撮影所システムは崩れた。映画監督をやりたいなら、役者も続けなよ。これからは、有名な奴が映画を撮る時代が来るから』と」

 

 その後、俳優としてテレビや映画に出演しながら、27歳のとき『ZAZIE』(1989年)で監督デビュー。当時の取材記事には、「住所不定の映画監督」と紹介されていた。

 

「(当時の記事を見ながら)ああ、ありましたね(笑)。『ZAZIE』を完成させたあと、宿無しで人の家を泊まり歩いていたんです。そのままニューヨークに渡って半年間。そこで満足したんでしょうね。寝袋を現地のホームレスの人にあげて、日本に帰ってきました」

 

 同作は、手持ちカメラによるドキュメント風の撮影など、現在ではスタンダードになったテーマや手法を先進的に取り入れ、話題になった。

 

 さらに、1995年の『BeRLiN』で、日本映画監督協会新人賞を受賞。2001年の『クロエ』は、第51回ベルリン国際映画祭に招待されるなど、利重は順調に監督としてのキャリアを重ねていく。

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