「小学生のころ、漫画『プロレススーパースター列伝』(原作・梶原一騎、作画・原田久仁信)が大好きでした。兄弟タッグの『ザ・ファンクス』が食べていた、“血のしたたるステーキと極上ワイン” のイメージが強烈で(笑)。
それで、『特別な日はステーキ』と決めてるんです。役者の打ち上げって焼き肉が多いんですが、僕の場合は必ずここのステーキです」
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勝矢(44)はそう言うと、500gのステーキを、あっという間に平らげてみせた。
体重120kgを超える印象的なルックスで、強面のヤクザ役からコミカルなオネエ役までこなす勝矢だが、「以前はだいぶ痩せてましたよ」と言う。
「高校時代は、プロサッカー選手を目指していました。183cm・73kgで、食事は1日6食。そのときの食生活を変えずにいたら、いまの体型になったんです(笑)」
高校卒業後、マツダに就職し、同社のクラブチームに所属した。しかし競争は激しく、チームは規模を縮小。Jリーガーへの道を断念した。
「21歳で、生き甲斐が何もなくなったんです。だから『なんでもやろう』と、酒飲んでクラブに行ったり、サーフィンしたり、いろんな遊びをしました。そのなかのひとつが、映画を観ることだったんです。
初めて映画を観たのは、高校の授業だったくらい、それまでは映画と縁のない生活でした。でも、ある雑誌で『高倉健さんの出演料が1本1億円』と書いてあるのを読んだんです。『俺も5000万円くらいもらえるんじゃないか』と、単純に考えてしまいまして(笑)」
通いはじめた大阪の俳優養成所は3カ月でやめ、上京。とび職と掛け持ちしながら、さまざまな作品のエキストラを務める日々が続いた。閉店後のラーメン店の空きスペースで、演技レッスンを受ける日もあった。
「売れない時期を『大変だ』と思ったことがないんですよ。とびの仕事も楽しかったですし。危険と隣り合わせの仕事だから、刹那的に旨いものを食べたりだとか、そういうノリも楽しかったです」
そんなとき、個性派俳優の菅田俊(64)と出会った。
「ある舞台のオーディションで、菅田さんにいきなり『お前デカいな。緊張してんだろ。その緊張を内側に閉じ込めるんだ。それがお前の存在感になる』と声をかけられました。
いきなりアドバイスされて、一瞬反感を持ったのですが(笑)、すぐにすんなりと受け入れられたんです。それ以来お世話になっていて、勝手に師匠と思っています」
勝矢は20代の時期、菅田から多くのものを吸収した。
「菅田さんからは、芝居をすることの緊張感、舞台における熱量やその強弱を学びました。
菅田さんの舞台で4~5年間、出演だけでなく演出助手や音響、大道具など、できることはすべてやりました。菅田さんの現場に菓子折りを持っていって、勝手にスタッフに挨拶まわりをしていた時期もあります(笑)」
菅田との縁から、竹内力(56)との関係が生まれ、29歳のときに竹内の事務所「RIKIプロジェクト」に所属し、俳優専業となる。この時期には、ヤクザ役でVシネマに多数出演した。
「こう見えて僕、もともとイジられるタイプで、怖い人じゃないんです。強面の役者が揃うRIKIプロで勝負していくために、ドジな役を買って出たり、怖い顔を研究したりしていました(笑)
力さんからは、カメラがまわった瞬間からのスイッチの入れ方を学びました。『役者として上を目指すならもっとたくさん働け。俺は、勝矢の年には、年に数本は主演していたぞ』とも言われて。
僕はのんびりした部分があったのですが、『ガムシャラに働かないといけないぞ』とスイッチが入りましたね」