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山崎裕太「芸能界やめたい」10代の葛藤を晴らした運命の舞台
エンタメ・アイドルFLASH編集部
記事投稿日:2020.03.06 06:00 最終更新日:2020.03.06 06:00
「子役からやってる人って、常に見られてる感覚があると思うんです。“ふつう” に憧れていましたね」
3歳でスカウトされ、デビューした山崎裕太(38)は2019年、芸歴35周年を迎えた。
「小学6年のときの年間出席日数は、20日でした。とにかく忙しくて、仕事をやめたくてしょうがなかったです」
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6歳から7年半、『あっぱれさんま大先生』に出演(1988年~1996年)。明石家さんま(64)にズバズバとものを言う、“やんちゃキャラ” で人気者になった。
「毎週の収録後、僕だけ呼び出されて、さんまさんから『裕太、あのタイミングはあかん』とか、ダメ出しされていたんです。『お笑い芸人を目指してるわけじゃないのに……』と当初は内心、反発していました。
でも、あるときから、『自分が必要とされてるんだ』って気がついたんです。あの現場でハートが強くなったと思うので、さんまさんには感謝しています」
それでも、芸能界をやめたい気持ちは変わらなかった。中高生のころは地元の同級生と遊び、髪の毛を染め、耳にはピアス。私生活でも、“やんちゃ” になっていった。
「いつも誰かに見られている気がしていました。アイドルのような立ち位置になっていて、女のコにワーキャー言われるのが、本当に嫌でした」
葛藤を抱えていた山崎だが、19歳のとき、NHK朝ドラ『私の青空』(2000年)に出演する。オーディションで、1440人のなかから選ばれたのだ。
演じたのは、ヒロイン(田畑智子)の弟・舷で、金髪ピアスの反抗的な若者。家業(マグロ漁)を継ぐことを一度は拒むが、最後は髪を黒く染め、父に弟子入りする。山崎にぴったりのはまり役だった。
「朝ドラに出ると、70歳くらいのお婆さんから『舷ちゃん、舷ちゃん』ってワーキャー言われるんです(笑)。『この仕事、すげえかも』と思いました」
そして2001年、代役で主演したのが、劇団☆新感線の舞台『大江戸ロケット』だ。新感線の舞台は、派手な殺陣やアクションがあり、台詞まわしも独特。「代役なら観ても仕方がない」という、突き放すような下馬評もあった。
「外部の声を気にする暇なんてありませんでした。話がきてから本番まで、11日しかなかったんです。2日間で台本をしっかり読み込んで、1日で歌と踊りを覚えて……。時間だけが目まぐるしく過ぎていきました」
そして、初日のカーテンコール。山崎が舞台に登場すると、観客全員が立ち上がっていた。
「1200人が総立ちで、ブワーッと拍手をしていたんです。『何これ? すごい!』って。『ちゃんと努力をすれば、こういうことがあるんだ』ということを目のあたりにしました」
山崎はこの舞台で、ゴールデン・アロー賞新人賞の演劇部門を受賞。
「『自分の生きていく場所はここだな』と思い、これから勉強すべきこともはっきりしました」