ドラマ『もしもこの世が舞台なら、楽屋はどこにあるのだろう』(フジテレビ系)で主演をつとめる菅田将暉
低視聴率が取り沙汰されることが多く、見逃し配信の再生回数でもあまり話題にならなかった脚本家・三谷幸喜最新作『もしもこの世が舞台なら、楽屋はどこにあるのだろう』(フジテレビ系)。
三谷氏が民放GP(ゴールデン・プライム)帯の連続ドラマを25年ぶりに手がけ、主演の菅田将暉をはじめ、二階堂ふみ、神木隆之介、浜辺美波など豪華キャストが集結。1984年の渋谷を舞台にしたオリジナル青春群像劇だ。
舞台演出家の主人公・久部三成(菅田)が、ストリップ劇場のダンサーや芸人、裏方といった寄せ集め集団で、シェイクスピアの劇団を立ち上げて成功を目指す物語。12月17日(水)に最終話(第11話)が放送された。
■『じゃあつく』に大敗、視聴率もTVerもふるわなかった
第1話は世帯5.4%/個人3.1%でスタートした視聴率(ビデオリサーチ調べ/関東地区)は、最終話では世帯2.9%/個人1.6%と、半分近くまで下がってしまった。
いまのご時世、リアルタイム視聴を計測することに意味はないという論調もある。たとえば視聴率が二桁に乗ったかどうかといったことに一喜一憂するのは時代遅れな気はする。けれど、増減の推移には注目すべき価値はある。第1話をわざわざリアルタイム視聴してくれたドラマファンが、最終話を迎えるまでに激減してしまったのは由々しき問題だろう。
一方、いまはTVerなどの見逃し配信の再生回数も重視されている。今期一のバズりドラマとなった『じゃあ、あんたが作ってみろよ』(TBS系)は、第7話の無料配信再生数が8日間で522万回を突破し、TBSのドラマ・バラエティを含む全番組でベストの記録を更新したという。
『もしもこの世が舞台なら、楽屋はどこにあるのだろう』は再生回数でもほとんど話題になっていない。ちなみにTVerの人気指標となるお気に入り登録(12月18日現在)は、『もしがく』が51.1万だったのに対し、『じゃあつく』は158.4万とトリプルスコアの大差となっている。
■【ネタバレあり】“最終話の主人公” としてありえない
ここからは、なぜ『もしがく』がコケてしまったのか、原因を考えてみたい。それぞれの価値観や視点の違いがあり、見る人によって感じ方も異なるので、原因をあげていけば複数あるかもしれないが、筆者のなかでは完全にたった1つの原因に集約されている。
それは、主人公・久部の圧倒的魅力不足。いや、魅力がないだけなら評価値はゼロだが、私見で言うと、主人公の言動にイライラすることがかなり多かったので、むしろマイナスだったのだ。
特に最終話のムーブはひどかった。たとえば、ダンサーの幼い息子の絵を久部が汚して台ナシにしてしまい、劇団内でけっこうな問題に発展するのだが、ただただ保身のために他のメンバーが疑われるように仕向け、罪をなすりつけていた。
また、とある事情で50万円が急遽必要になったため、久部は劇団の金庫から持ち出してしまうのだが、劇団員たちをウソで煙に巻こうとし、それでも問い詰められてバレてしまうと、みっともなく逆ギレ。多くのメンバーが信頼できない久部にはついていけないと主張すると、「だったらみんな出てけよ」と劇団から追い出そうとする始末。これが “最終話の主人公のムーブ” なのである。
物語前半に主人公のクズさが出るドラマは少なくない。そこから人間的に成長していく姿を描くことで、物語後半で視聴者にカタルシスを与えられるからだ。けれど、この2つのクズエピソードが描かれたのは最終話。辟易としてしまった。
もちろん、これまでの久部にまったくいいところがなかったわけではなく、彼も成長した部分はあるし、彼の言動で感動した回もあった。それによってドラマ全体が盛り上がり、次第におもしろくなってきた感覚もあった。
しかし、最終話の終盤、久部は数々のクズ言動=自分の蒔いた種で、劇団を去らざるを得なくなり、前劇団でもいざこざから去ることになった第1話とほぼ同じ境遇に陥ってしまう。要するに、肝心なところが全然成長しておらず、同じ過ちを繰り返したのだ。
■主人公・久部のクズ要素の根幹にある「幼稚さ」
主人公以外の劇団員たちは、それぞれに味わい深い個性があり、ナイスキャラばかりだった。
市原隼人演じる用心棒・トニー安藤、戸塚純貴演じる警官・大瀬六郎、松田慎也演じるウェイター・ケントちゃんあたりは、本当に最高。また、西村瑞樹(バイきんぐ)演じる芸人・彗星フォルモンは、序盤はめんどくさいイヤなヤツだったものの、回を追うごとに人間的に成長していったので見ていて心地よかった。ときにかっこよく、ときにおもしろく、この世界(ドラマ)で息づく愛すべき住人たちだった。
それゆえに、久部の魅力のなさが際立った感がある。いつになったら主人公に好感を持てるのだろうか、いつになったら主人公に感情移入できるのだろうか。そう思い、耐えながら観続けたが、とうとう久部にイライラしたまま最終回が終わってしまった。
三谷氏は久部のようなダメなキャラクターのほうが、人間として生々しくてリアルだし、醜くもがき続ける姿が美しいということを伝えたかったのかもしれないが……。久部という人間をさらに深掘りして考えてみると、彼のクズ要素は「幼稚さ」が根幹にあるように感じる。芯が強いようで弱かったり、けっこう日和見主義のところがあったり、後先考えずに行動したりしていたのは、精神年齢の低さからだろう。
最後まで主人公が成長せずに幼稚なままじゃ、おもしろくなるものもおもしろくならない。せっかく主人公以外は魅力的な登場人物が多かったのに、これじゃナイスキャラの無駄遣い。とにかくもったいないドラマだった。
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