久米宏さん
今年、1月1日に亡くなった久米宏さん。『ニュースステーション』(テレビ朝日系)の司会者などとして知られた彼だが、大学時代にはまた別の顔があったという。当時を知る旧友が、田中眞紀子氏だ。
「彼は、当時からあのまんまです。頭が良くておしゃべり。早口で器用でおっちょこちょいで……。テレビで見る彼と変わらない学生でした」
そう当時を振り返った田中氏。久米さんと田中氏は、早稲田大学の同じ劇団に所属していたという。「もう60年近くの付き合いになりますね」としみじみと語る彼女だが、大学時代はやはり演劇の話をすることが多かったという。彼のことを「久米ちん」と呼んでいたという田中氏は、当時をこう語った。
「小難しい話はしません。彼もあの性格だし、私もこのタイプだから(笑)。言いたいこと言って、お互いガハハって笑って、それでおしまいですよ。
学生時代は学部も違い、それほど親しい、という間柄でもありませんでした。ただ、当時は学生運動が非常に激しくて、劇団員はみんな、『米潜水艦の佐世保寄港、反対!』などとデモによく行っていました。そんななかで、デモに行かなかったのは久米ちんと私だけでした。二人とも真面目な学生でしたから、授業に出ないで演劇や学生運動に打ち込む、というようなことはお互いしませんでした」(田中氏・以下同)
後に、政治家とニュース番組の司会者となる二人だが、大学生の時には意外な共通点があったというのだ。「売れない俳優にでもなるのかと思っていた」と久米さんを語る田中氏だが、大学卒業後に、思いもよらぬ形で“再会”を果たすことになる。
「卒業後に私が高速道路で自分で車を運転していた時、退屈してカーラジオを付けたんです。そしたら、そこでしゃべっていたのが久米ちんで、びっくりしました。学生の時と同じようにペラペラとおしゃべりしていたから、自宅に帰って久米ちんに電話したら、『ああ、聞いてくれたんだ』と言ってましたね。『俺、今度TBSのアナウンサーになったんだよ』というので、そこで初めて彼の職業を知りました。
その後も、私がテレビに出るようになってテレビ局で一緒になったりすると、廊下でパッと顔を出してきて『眞紀子、今の良かったよ!』とか。ラジオなんかもどこかで聞いてくれたりしていました。
マメな性格だった様子の久米さんだが、そのことを田中氏に聞くと、「私も、マメよ」と笑う。そんな交友は、その後も続いた。
歯に衣着せぬ物言いで、ニュース司会者としての新しい形を作ったといわれる久米さん。その背景にも、もしかしたら田中氏の存在があったのかもしれない。
「あの人はどの番組でも政治批判をするでしょう。それで、どっかのスタジオで久米ちんが私に会ったとき、『俺、参っちゃったよ』と言うんです。
彼が言うには、ある時、当時の自民党の幹事長から、久米ちんが出演していたテレビ局の社長に電話があったそうなんです。『久米が自民党の批判をするので、番組を降ろせ』と。それで久米ちんは社長に呼ばれたそうなんです。それで彼は私に『どうしたらいい?』って聞いてきたので、私は『やめることはないわよ、そんな差し出がましいこと言うから自民党はダメなのよ』と彼に言ったんです。久米ちんは『そうだよな、わかったわかった』とケロッとしていました(笑)」
田中氏が最後に久米さんに電話したのは、死去の4カ月ほど前だったという。
「『こないだ番組見たよ』とか、そんな軽い話をしようと思って電話を掛けたら奥様が出て、『本人が苦しくてしゃべるのが大変だ』とおっしゃっていましたね。それで、その時は電話に出られないから、私の声を奥様の脇で聞いているということでした。
久米ちんの最後の姿を見たのは、さらにその半年ほど前だったと思います。あの時は私が、早稲田大学の大隈庭園で取材を受けていたのですが、そしたら久米ちんがブラブラと歩いていたんです。『久米ちん!』って呼びかけたら、『おう何やってんだ、仕事かよ』と返事をしていました。あれが直接話をした最後だったと思います」
二人が最後に会ったのは、お互いの母校だったのだ。最後まで久米さんと田中氏の関係性は、学生時代のままだったようだ。
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