
レジェンド漫画家・バロン吉元氏(写真・福田ヨシツグ)
2025年12月、文化庁長官特別表彰が発表された。“文化活動に優れた成果を示し、日本文化の振興に貢献した人物”が御年85歳、漫画家のバロン吉元氏だ。
“貸本”が全盛期の時代に漫画家デビューを果たし、1960~1970年代にかけて巻き起こった劇画ブームでは全盛期を築いた、まさにレジェンド漫画家。東京都内にあるバロン.プロでは、トレードマークのテンガロンハットに、レザーベストを着込んでお出迎えしてくれた。足取りも軽く、朗らかに話す姿は、とても85歳には見えない。
「58歳です!」と笑うレジェンドは、未だ意気軒昂である。代表作である『柔侠伝』シリーズの第2作目にあたる『昭和柔侠伝』も最近リイド社から復刊され、2024年からは約20年ぶりとなる漫画連載を始めた。マンガサイト・HERO’S Webに掲載されている寺山修司原作の『あゝ、荒野』だ。昨年には単行本第1巻も発売された。
「描き込んでますよ。寺山修司を大事にしながら描いているとね、独走してしまうんだよねえ」
1940年11月11日、旧満州・奉天市生まれ、鹿児島県指宿市育ちのバロン氏は、幼い頃はマンガ家になるなど思いもよらなかったという。
「挿絵画家になりたかったんですよね。子供の頃から貸本屋で大衆雑誌を借りてね。載っている小説を読んだり、ページをランダムに開いた場面からイメージを膨らませて、自分で絵にしていたんですよ。これが後々、いい勉強になりましたねえ。アメコミは好きでした。鹿児島の実家から3分くらいのところに、地元で一番大きなホテルがあったんです。そこが進駐軍の宿舎になってたんですよ。そこでね、6歳の頃に『バットマン』のアメコミに出会ったんです。でも、自分で漫画を描こうとは思わなかった」
画家を目指して武蔵野美術大学に入学したバロン氏は、大学時代も挿絵を描き続けた。ある程度たまったところで、いきなり出版社に持ち込みを決行したという。
「18、19歳くらいの頃ですね。玄関払いでしたよ(笑)。その当時の大衆雑誌の挿絵は一流の画家や挿絵画家の仕事でしたから原稿料も高かったんだよね。これで食っていこう! と思っていたのですが……」
しかし、挿絵画家はなかなかハードルが高い。当時は貸本漫画が人気だったため、バロン氏も漫画に挑戦した。
「貸本漫画の『街』という雑誌に10ページくらいの短編を投稿し始めたんです。自分でも下手だなあと思いながら出してたら、入選を重ねて新人特別賞というのをもらったんです。当時で1000円の賞金が出たんですよ。出版社に取りにきてくださいと言うから、神田のセントラル出版というところに行ったんです」
これが、人生を変える出会いを生む。
「編集部に行ったら、同い年くらいの若者がいたんです。同じように賞金をもらってたんで、何となくそのまま肩を並べて水道橋駅に向かったんですよね。歩きながら自己紹介し合って、彼が『これから、漫画家のさいとう・たかを先生のところに遊びに行くんだよ。もし良かったら、君もどうか?』って言われてね。それはスゲえなあと思って、一緒に行ったんですよ。これが漫画への気持ちに火をつけましたね」
アシスタントを志望するも、人数が足りているとのことで果たせず。後に『日刊ゲンダイ』で『やる気まんまん』を大ヒットさせる横山まさみち氏のアシスタントに入ることになる。
「当時はアシスタントとは呼ばれず、弟子だと言われました。指導を受け始めてから、よし、漫画家になろうと大学を辞めたんです。デッサンを学ばないといけないと思って、セツ・モードセミナーにも入ってコスチューム・デッサンをやってましたね。横山先生の原稿を手伝いながら、自分の作品も描く。絵はね、及第点。でもストーリーがダメだと言われて、横山先生は本当に丁寧に教えて下さいました。これが勉強になったんです」
横山プロに3年ほどいた後、独立。双葉社で描き始めた時、現在に続く“バロン吉元”のペンネームを勝手に付けられてしまう。
「ある日、雑誌を見たら、事前の断りも無しに“バロン吉元”というペンネームつきで刷られているわけです。勝手に人の名前を付けやがってって、怒ったんですよ。それまでは親からもらった名前を大事に、本名の吉元正で描いてましたから。それで編集部に乗り込んで怒鳴りまくって、もとに戻せって一生懸命言ったんだけどね。ひとりの編集者が『バロンの意味を知ってますか?』と言い出して。調べて行きゃあ良かったんだけど、頭にきてたからさ(笑)。それで、バロンってのは男爵のことだ、公侯伯子男っていって、爵位では低いけど、もっとも暴れん坊が多い侍大将格なんだとか説明されて。そうか、もう名付けられちゃったから仕方ねえなって帰ったんだよ」
当時は相当頭に来ていたと熱弁するバロン氏だが、会社側も売り出すためにしっかりバックアップしてくれたという。
「1967年に『漫画アクション』が創刊されて、この編集長がスゴい人だった。ありとあらゆる名前のある漫画家をアクションに連れてきたのに、創刊号での二大看板は私とモンキー・パンチだったんですよ」
創刊号には石ノ森章太郎氏(当時は石森)、小島功氏、水木しげる氏、小島剛夕氏など錚々たるメンツが並んでいるが、その中で二大新人として売り出されたのがバロン氏とモンキー・パンチ氏だったのだ。
「アクションの執筆陣では、石ノ森先生が親分でした。マンガ界でも手塚治虫先生に次ぐ売れっ子でしたからね。素晴らしい、私が大尊敬する先生だった。彼は後年、漫画文化の発展と漫画家による国際交流を目指す一般社団法人マンガジャパンという団体の創設に参画しましてね、私は早速そこに入った。随分可愛がられましたよ。当時は“石森”でしたけど、食事会をよくやってくれててね。他の漫画家と一緒に、よくワイワイやってました」
『ルパン三世』で大ヒットを飛ばしたモンキー・パンチ氏は、同期デビューの“盟友”だった。
「仲良かったですね。ここ(バロン.プロ)から歩けるくらいのところに住んでたんだけど、いつも車で遊びに来てましたね。彼と会うとね、スター・トレックの話ばっかりだったね。“トレッキー(スター・トレックの熱狂的ファン)”だったんですよ。彼は、自分の自宅に劇場を作ってね、結構大きなスクリーンでしたよ。そこでスター・トレックをよく見てた。私も別に嫌いじゃなかったからね、時々は一緒に見てたけど、モンキー・パンチはのめり込んでたね。まじめな漫画の話をしても、すぐスター・トレックでしたから(笑)」
そして盟友ではなく弟子筋となるが『マカロニほうれん荘』で大ヒットを飛ばした鴨川つばめ氏。バロン氏の元アシスタントである。
「鴨川つばめはね、彼がバロン.プロを去ってからは、連絡をとる機会はあまりないけど、2017年に画集を出した時には、手書きの寄稿文を送ってくれたんです。嬉しかったな。いい奴だった。私が福岡の大牟田に取材に行ったときに出会ったんですよ。その時、高校2年生だった。大牟田には『街』で執筆していた中河のりおさんが塾の先生をしていて、『漫画のうまい奴がいるから会ってくれ』と言われて、作品を見せられて。なかなかいいなと思ったんで、高校卒業したら出てこいやって言ったら、そのまま私を追っかけるように来ちゃったんですよ。転がり込んできちゃったら、帰れとも言えないしね。かわいい顔しててね、でも描くものは個性が強かったし、あんまり人の言うことを聞かない(笑)。自我が強い子で、自分を曲げないんです。今はどうしてるんだろうなあ」
漫画の神様である手塚治虫氏にも可愛がられたという。
「手塚先生が創刊した『COM』という漫画雑誌がありましてね。その中で草森紳一(マンガ・広告・写真評論家)さんが私の『柔侠伝』を実に長々と褒めてくれたんですよ。手塚先生はそれで、読んだんだろうなあ。手塚先生と何度か食事をしているうちに、一緒にアメリカへ行こうということになるんです」
1980年、バロン氏は手塚氏、モンキー・パンチ氏、永井豪氏らと日本のマンガのPRを目的にサンディエゴでおこなわれたコミコンに参加。その帰りの飛行機で、バロン氏の隣に手塚が座った。
「手塚先生がアメリカに家を買おうって言い出したんです。その時にいた4、5人の漫画家で、当時のお金で1000万ずつ出せばサンタモニカにプール付きの家が買えるって言うから、私は大賛成したんですよ。それは素晴らしい、いちいちホテルに泊まるより、自由にできるわけですから。賛成したのはいいんだけど…賛成は私しかいなかったの(笑)。帰国して手塚先生から連絡がないから、どうしたんですかって聞いたら、OKしたのはお前だけで、後は断ったよって言うんだもの。じゃあ、しょうがねえ、自分ひとりで買うしかねえなと思ったから、7000万近くで買いましたね。今だとどのくらいの金額になるんだろう…高いですよね。ビバリーヒルズに対して“ドクターヒルズ”って呼ばれてる場所で、医者や弁護士が多く住んでるエリア。カリフォルニアのデベソみたいなところの山の上でね。ランチスタイルの一軒家でした」
ロサンゼルスに535坪、プール付きの家を買ってしまったバロン氏は渡米。
「当時は独身だったから、寂しかったですけどね。航空便で原稿を送ったりもしていました。それ以外はもう遊んでばっかりですよ(笑)。主に、飲む、打つ、買うだよ。全部やってましたねえ。あとは拳銃ぶっ放したりね」
アメリカでバロン氏はアメコミの総本山であるマーベル・コミックに作品を持ち込む。
「おかげでスタン・リーとはかなり仲良くなりましたね。サンディエゴ・コミコンで挨拶したら『おー、バロン!』なんてね、話しましたよ。何とかしてマーベルで仕事したかったから、実際に描いたけど、そこで食うことは出来なかったな」
後に『コナン・ザ・グレート』など、アーノルド・シュワルツェネッガー主演映画シリーズになる『英雄コナン』のコミカライズを担当したが、後が続かなかったという。
「『お前、日本人なんだから日本らしい作品を持って来い』っていろいろ言われてね。バブル前のあのころ、日本の経済力がスゴいせいで、ジャパンバッシングが激しかった。何か、バカにされてる感じがしたんです。わざとボロクソに言われてる。日本人にアメコミが描けるかって、見下されてる気がしたんだよ。今思えば、日本で描いていた劇画をマーベルでもそのまま描けばよかったんだ。それを求められていたんだから。でも私は、アメリカではアメコミを描きたかった」
あの時、求められた“サムライもの”や“特攻隊もの”を描いていたら、今のマーベル・ユニバースには、バロン氏の作品が加わっていたかもしれない。
「何で断ったかなあ(笑)。でも、仕方ないよね。向こうは英語でバーッと喋ってくる、こっちは通訳もいないしカタコトだからね。友人に通訳を頼んだけど、言ってることを理解できたらできたで、扱いがヒドイなって感じたんだよな。怒りがどんどん高ぶってきちゃって、やりましょうって気にはなれなかった」
肝心のアメリカ移住の言い出しっぺである手塚氏は、遊びに来ることはなかったという。同じく大御所では藤子不二雄A氏とは、“飲み仲間”だったという。
「先輩なんだけど、すっごく仲良かった。友達付き合いみたいだけど、こっちが後輩だからね。彼と会うと、こっちは必ず彼を冷やかすんだ。そうすると『こら、バロン!』なんて言いながら追っかけてきて……そういう悪ふざけをよくやりました。パーティー会場なんかで、よくじゃれ合ってたもんですよ。一緒に飲みに行くと、いつも彼が奢ってくれるんです。だから、こっちも一度くらいは奢ってあげなきゃって思ってね、約束して私の馴染みの店につれてこうとしたら、『いやいやダメだ、バロン』って。彼は食べないで、こっちばっかり食べてさ、奢らせてくれないんですよ。そういう先生でしたよ。友達であり、先輩であり、親分って感じだったなあ」
漫画家ではないが、俳優の松田優作さんとも交流があったという。
「大好きでしたねえ。当時キネマ旬報でちょっとした連載してたんでね、『遊戯』シリーズ3作を見て、これはスゴい、こんな俳優いなかったってブワーッと文章で書いたんですよ。こんだけ書けば女性のひとりやふたりは紹介してくれんじゃないかな、なんて最後を結んだんだよね(笑)。でも、それはさすがに来なくて、ビールが届いたんですよね。そこから付き合いが始まったんです。会いたいって言うんで、たびたび飲むようになったんですよ。彼は私の作品を貸本の頃から熱心に読んでいたらしいんです。しかし優作も変わってるからねえ……私が結婚した後、店に飲みに連れてったんだよ、かみさんをね。偶然、優作がいたんですよ。そしたら『バロンさん!』って私の手を両手で握りしめて離さない。それをウチのかみさんがジーッと見てさ、この人たち何?って顔してるんです。あの日はスゴかったな。それで、『俺、バロンさんちの近くに引っ越すからよろしく』って言い出して、本当に引っ越してきたんですよね。
映画の話を良くしました。優作は日本の映画に出るより絶対ハリウッドのほうが面白いんじゃないかな、なんて話を随分しました。私はアメリカと行ったり来たりしてましたからね。つい先日は松田美由紀さんがうちへ来て、いろいろ昔の思い出を話しましたよ。最初、優作に会った時は彼女はいなかったな。何度か会ってるうちにカウンターの横に可愛い女の子いるなって思ってさ。それが彼女だった」
女優では風吹ジュンとも交流があった。きっかけは、彼女をマンガのヒロインにしたこと。
「『柔侠伝』シリーズにはいろんな女性が登場するんですけど、『現代柔侠伝』のときに、ヒロインが描けなくなった。どうしても過去に描いたヒロインに似ちゃうんですよね。困ったなあと思ったときに、平凡パンチかなんかの裏表紙でキリンレモンの広告が出てて、瓶を持った少女が出てたんです。それを見た瞬間にボーンッと来たんです。これだっていうんで、その佇まいからインスピレーションをいただいて。阿蘇の酪農家の娘で馬に乗って駆け回るヒロインのイメージにピッタリだったんですよ。顔もそっくりに描いちゃったから、事務所に連絡したら対談してくれて。電話でいろいろ話したりもしたなあ」
歌手の浅川マキさんには追っかけられたとも話す。
「私と一緒にステージに立ちましょうって、ずいぶんアプローチを受けました。彼女に『金沢に行きましょう、バロンさんのファンがいっぱいいるから』って誘われたこともある。ウチの近所の喫茶店で会って、いろいろ口説かれた思い出があります。その頃は独身だったけど、彼女もいつも彼氏がいたから、浅川さんに口説かれても付き合わなかったんだよなあ。私、彼女がすごいってあんまり分かってなかったんですよね」
1985年に日本に帰国した後のバロン氏は、漫画制作と同時に絵画制作も開始。2003年には文化庁から第一回文化庁文化交流使としてスウェーデンに派遣され、2005年からは大阪芸術大学のキャラクター造形学科教授にもなった。そして現在も新作を描き続けている。
「今、描いてるのが精一杯ですよ。若いときに負けないようにって気持ちで描いてるけど、やっぱり若いときのほうが上手いね。構成力、ストーリーの流れも。
しかも今、背景を書きまくってる。アシスタントなしで、ひとりで描いてるから、時間がかかってしょうがない。斜線を引くのが大変だねえ。今年の春には『あゝ、荒野』の第2巻が出る。私が生きてる限りは連載を続けたいんですよ。死ぬ直前まで描き続けられたら、大したもんだねえ」
「なかなか現実は許してくれないかもしれないけどね」と笑いながら、バロン氏は“自分の終わり”を見つめている。とはいえ、往年の漫画家らしく“遊び方”はレジェンドクラスだ。
「銀座はね、今年で60年たつけど、ずーっと同じ店に通ってますよ。ママは何人も変わったけど、会長はずーっと同じなんだよね。超一流のクラブですよ。座っただけで数万円かな。女性も揃えていて、どの方が来ても満足(笑)」
この“生命力”なら、まだまだ新たな伝説を刻めそうだ。
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