
「一生懸命、芸人の嫁になったんだと思う」と初美さんを偲ぶダンカン(写真・木村哲夫)
長年にわたり、第一線で刺激や笑いを届けてきた表現者たち。その胸には、愛する人と過ごした大切な時間が、色あせずに残っている。ダンカンが、2014年に47歳で亡くした妻・初美さんとの思い出を語る。
ダンカン一家は、熱狂的な阪神ファンとして知られる。長男に「甲子園」、次男に「虎太郎」と名づけたほどだ。2014年6月22日、日曜日。ダンカン夫妻は自宅のリビングで、阪神対楽天のデーゲームをテレビで観ていた。
「ママリン(初美さん)が『ちょっと体がきつい』って言うんで、俺が膝枕をして、彼女は横になって試合を観ていたんです。しばらくすると、『膝、疲れるから、もういいよ』って、自分から頭を離した。結果的に、それが最後の言葉になりました。まさか亡くなるなんて……」
24年連れ添った愛妻との別れは、あまりにも突然だった。
2人の出会いは1986年、『ビートたけしのスポーツ大将』(テレビ朝日系)のアシスタントに初美さん(当時20歳)が応募してきたことだ。ダンカンの第一印象は「元気で明るいコだな」というものだった。その後、後輩芸人を介して初美さんの連絡先を聞き出したが、彼女はこう切り返した。
「私、丙午(ひのえうま)の生まれだから、つき合っても男を食っちゃうくらい気性が激しいの。やめておいたほうがいいよ」
その言葉が、かえってダンカンの心に残った。
「じつにおもしろい、これまでつき合ったどの女性とも違う。芯の強い人だな、と感じました」
ダンカンが結婚を意識するきっかけになったのは、ビートたけしとたけし軍団による「フライデー襲撃事件」だった。1986年12月9日の朝、初美さんはダンカンのために初めて手作りの弁当を用意して、自宅へ向かった。しかし、部屋にダンカンの姿はなかった。1、2時間と時間だけが過ぎていくなか、ふとテレビをつけると、画面にはダンカンの逮捕を伝えるニュースが流れていた。
「逮捕されて、“飯塚実”って俺の本名がテロップで流れてさ。『こんなところにいたんだ』って(笑)。釈放された後に手作り弁当の話を聞いて、これは運命かな、って思った。ギャグみたいな話だよ」
そんな偶然を経て、2人の距離は少しずつ縮まっていった。初美さんの実家へ結婚の挨拶に行く際も、ダンカンはひとつネタを仕込んでいた。
「お父さん、お父さんを僕にください!」
千葉の刑務所で看守として働いていた初美さんの父親も、このひと言には笑いをこらえきれなかった。緊張に包まれていた場が一気に和み、結婚は無事に認められた。
毎日のように朝まで酒を飲み、若手芸人を自宅に招いては夜中でも「ちょっとつまみを作ってくれよ!」と頼む。子供を風呂に入れたこともない。当時は、芸人として当然だと思っていた。そんな生活のなか、3人の子宝に恵まれた。
初美さんはただ夫を支えるだけの人ではなかった。ダンカンが仕事の愚痴をこぼすと、こう言い放った。
「好きな仕事でお金をもらえる人は、世の中にほとんどいないんだから。自分がそんな恵まれた人間だってわかっていないんだったら、やめなさい」
その言葉は、今も胸に残っている。
「そのとおりだと思いました。40、50になってもアルバイトしながら芸人を続けている人がいっぱいいる。それを考えたら、テレビに出て、ロケに行けばグリーン車に一流ホテル。愚痴を言っている場合じゃないだろうなって」
2005年、ママ友との会話をきっかけに乳がん検診を受けた初美さんに、右胸にがんが見つかった。それらしい自覚症状はなかった。
「ショックはなかった。そのころは、『乳がんなんてしこりを取ればいいんでしょ』という程度の認識でした。ママリンも深刻なことは何も言わなかったから」
初美さんは、両方の乳房の全摘出も受け入れるつもりでいた。それを止めたのは、ダンカンだった。
「女の人は、おっぱいがないとか髪の毛がないとか、すごく落ち込むことだろうから、『片っぽだけにしようよ』って。俺が決めた」
その判断を、ダンカンは今でも悔やんでいる。
2008年には左胸にも乳がんが判明し、2011年に肝臓、2013年には脳への転移がわかった。それでも初美さんは日常を変えなかった。弁当を作り、家事をこなし、訪問介護の仕事も始めた。
「つらそうな姿は見せなかったですね。むしろ『がんだからなんなの?』という感じで。抗がん剤で髪の毛がなくなってかつらをかぶるんですけど、普通に外して笑ってました」
箱根温泉へ日帰りで出かけたときも、初美さんは手術痕を隠そうとしなかった。周囲が気を使うと、
「だって、これが今の私の体なんだから」
と、笑い飛ばした。
また、こんな言葉を交わしたこともあった。ダンカンが「俺の兄貴は3歳で、親父もおじいちゃんも、57歳で亡くなってる。相当、神様に貸しがあるから、いざとなったらそれを返してもらうよ」と言うと、初美さんは静かに首を振った。
「それはやめて。もし、子供が事故や病気をしたときに、使うようにとっておいて」
ダンカンは、そんな初美さんの姿を振り返り、「強いんですよ」と繰り返す。
だが、一度だけ、弱音を吐いたことがあった。
「痛いとか苦しいとかじゃなくて、『怖い』と。脳に転移した影響で、明日の朝起きたときに、自分の子供たちの名前を忘れているかもしれない。それがいちばん怖い、って」
初美さんは、47歳で亡くなった。火葬場が混んでいたため、初美さんのご遺体は1週間、自宅に戻ることになった。ダンカンはその間、リビングの隣の和室で、妻とともに眠った。通夜では3人の子供たちとともに号泣した。翌日の葬儀・告別式でも、出棺前の喪主あいさつで妻の名を叫び、むせび泣いた。
「『今までありがとうね』って。それが言えなかったことが、今もつらいですね。喪失感は、12年たっても消えない」
初美さんの洋服は1枚も捨てていない。携帯電話やメールも、そのまま残している。いまも毎月22日の月命日には墓参りに行く。毎日、仏壇に線香とお茶をあげる。
「うまいものを食べたときは、『いたら食べさせてあげたのに』、とか思うけどね。俺には楽しい思い出があるけど、彼女にはなかったんじゃないかな。ずっと仕事ばかりで、家のことは全部やってもらっていた。日本舞踊の名取となり、家元の資格もあったと聞いたのに、その道を歩む夢さえ、俺が奪ってしまったのかもしれないな」
取材の終わりに、ダンカンはふとこう漏らした。
「再婚なんて考えられない。奥さん以上の人はいないからね。俺が浮気したとき、『相手の女の人、傷つけてない? 大丈夫?』って言ったことがある。勝てないよ。一生懸命、芸人の嫁になったんだと思う」
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