
嘉門タツオは自作の歌で、妻・こづえさんを見送った(写真・木村哲夫)
長年にわたり、第一線で刺激や笑いを届けてきた表現者たち。その胸には、愛する人と過ごした大切な時間が、色あせずに残っている。嘉門タツオが、2022年に57歳で亡くした妻・こづえさんとの思い出を語る。
「あっぱれや」
2022年9月15日。妻のこづえさんが息を引き取った後、嘉門タツオは、そう声をかけた。
最期の瞬間、嘉門はこづえさんのそばにいなかった。呼吸が弱まり、別れのときが近いことを感じながらも、訪問看護師から今後のことを聞くため、ほんの少しだけ廊下に出た。そのわずかな間に、こづえさんは静かに旅立った。
「僕にとって、いちばんつらい瞬間を見せず、ひとりで逝った。これは彼女の演出やな、と思いました。花道を歩ききった感じがしたから、小さく拍手して、『あっぱれ』と」
こづえさんは、悪性脳腫瘍と向き合いながら、57年の人生を駆け抜けた。嘉門にとっては、14年間連れ添った妻であり、食とワインをともに楽しむ相棒であり、新曲を誰よりも早く聴き、率直な感想を返してくれる、いちばん近くの理解者でもあった。
2人が出会ったのは、2007年のこと。東京・赤坂にある、宇崎竜童・阿木燿子夫妻が経営するライブハウスに嘉門が出演した際、その後の打ち上げにこづえさん(当時42歳)が参加したのが縁の始まりだった。彼女は東京慈恵会医科大学病院の眼科医であり、アンチエイジングの分野にも携わる医師だった。
「僕が通っていた鮨の名店『あら輝』に予約を入れていたんだけど、仕事が入って行けなくなったって話をしたら、彼女が『その席、私がもらっていいですか?』と。そこで初めてメールアドレスの交換をした。下心? まぁ、そうですね(笑)」
嘉門は1992年に婚約解消を経験しながらも、49歳まで独身を通した。掃除も洗濯も料理もこなせ、ひとりで生きることに不自由はなかった。
「結婚願望が、もともとなかったんです。笑福亭鶴光師匠の弟子時代から、なんでも自分でやってきたから、家庭に奥さんがいて面倒を見てもらう、という感覚があまりなかった」
そんな嘉門の背中を押したのは、仲間たちだった。北野誠、笑福亭笑瓶、桂雀々らが、こづえさんに「タツオを頼むわ」と声をかけていた。
「まわりが『これを逃したらあかんぞ』という空気を作ってくれたんです。僕はその神輿に、ひょいと乗った感じですね」
こづえさんは37歳のとき、悪性脳腫瘍の手術を受けていた。交際が始まると、彼女はそのことを嘉門に打ち明けた。しかし、嘉門の前で不安を口にすることはなく、3カ月に1度のMRI検査を受けながらも、日々を暗くしなかった。
2008年11月に結婚。翌年、大阪で開いた披露宴の会場は、万博記念公園に隣接するホテル阪急エキスポパークだった。1970年の大阪万博に大きな影響を受けた嘉門にとって、「太陽の塔」は、特別な意味を持つ。会場からはその姿が見え、ホテル側はウェディングケーキにも、塔をあしらってくれた。
結婚後もそれは、2人だけの目印であり続けた。新幹線や飛行機の窓から一瞬でも見えると、「あ、見えた」と探す。
嘉門の家には、いまも「太陽の塔」のオブジェがいくつも飾ってある。こづえさんは、嘉門の万博への熱をおもしろがり、2010年の上海万博から、ミラノ万博、ドバイ万博にも同行した。2025年の大阪・関西万博も一緒に行くはずだった。
「腫瘍を取る手術を嫌がったときも、『それやったら、万博行かれへんがな』って説得したことがあるんです。万博も、僕らにとってはキーワードなんです」
結婚してしばらくすると、病気の影響で右半身が少しずつ不自由になっていった。やがて杖なしでは歩けず、利き手でカルテを書くこともままならなくなり、医師の仕事を続けることができなくなった。それから、こづえさんは嘉門の仕事場やライブに同行するようになった。新曲ができると、嘉門はまず妻に聴かせた。
「メロディーが違うとか、言い回しはこうしたほうがいいとか、的を射ていて、音楽の専門家じゃないのに、ちゃんとわかってる。僕が作った歌を最初に聴かせる相手でした」
夫婦の共通の話題は、食とワインだった。予約の取れない店に電話をかけ続け、地方の仕事先でもうまいものを探した。焼き鳥店に何度も通い、カレーの曲を作るために2人で何十軒もの店を食べ歩いた。
「僕が日本一と思う寿司店に行ったら、帰り際、店の人に『再訪したいから、今度はシャリの温度を少しだけ上げてね』と言う。中華の名店では『お豆腐、変えました?』、焼肉店では『これ、去勢牛?』。そういうことがわかる人だった」
2016年12月に発売した32枚めのアルバム『食のワンダーランド〜食べることは生きること〜其の壱』は、2人の生活そのものだった。美味しいものを食べ、ワインを飲み、感想を言い合い、それがまた歌になっていく。病気を抱えながらも、2人の日々には笑いと好奇心が溢れていた。
2022年6月、がんが再発した。進行は速く、手術をしても腫瘍は再び大きくなり、薬も思うように効かなかった。体が不自由になっていくにつれ、こづえさんはこんなことを口にするようになった。「人間には寿命があるから」「私のほうがたぶん先に逝くと思うので」。そして、「家に帰りたい。猫に会いたい」とも。
2人は、緩和ケアを選択し、嘉門はこづえさんを自宅に連れて帰った。最後の21日間、会いたい人、会わせたい人に連絡を取り、見舞いのスケジュールを嘉門自身が組んだ。家には約160人の友人が次々に訪れた。
「最初の1週間ぐらいは意識もあって、友達が来たら宴会して、ワインも飲んでいました。押尾コータローさんがギターを弾き、元JAYWALKの中村耕一さんが『何も言えなくて…夏』を歌ってくれて。最後の花道というか、フィナーレみたいな見送り方はできたと思います」
意識が遠のいていく妻のそばに、音楽があり、笑い声があった。嘉門が用意したのは、悲しいだけの看取りではなく、こづえさんらしい “最後の宴” だった。
葬儀で、嘉門は自作の『旅立ちの歌』と『HEY! 浄土』を歌った。以前、互いの母を送る場で披露し、こづえさんが「私のときも歌ってね」と言っていた曲だ。
「そういう意味やったんやな、と思いました」
泣きながら、歌い切った。そこから喪失感が押し寄せてきた。
「最後のころは、僕はサポートする立場でした。車椅子に乗せて、車に乗せる。レストランに行っても、椅子に座らせて、食べ物を切り分ける。そういうことを普通にやっていたんです。それがまったく必要なくなると、身を持て余すんですよね」
涙は、日常のなかで突然こぼれた。2人で通ったタンメンの店に入り、ラー油をかけているだけで悲しくなる。ワイングラスの向こうに、もう彼女はいない。思い出の店を訪ねると、店の人がこづえさんを偲び、彼女の席を一つ作り、ワインを注いでくれることもあった。
「切ないんですけど、ありがたいなとも思うんです。それだけ彼女の残像というか、存在感を、お店の人も受け止めてくれていたんやなって」
こづえさんの言葉が、何度も胸によみがえった。ある日、車を運転していると、助手席のこづえさんが突然、こう言った。
「何があっても、私は応援しているからね」
そのときは唐突に聞こえ、嘉門は「頼むわ」と返しただけだった。だが死別後、その言葉はまったく違う重みを持って響いてくる。
「自分がいなくなった後のことを、彼女は考えていたんやと思います。要所要所で、そういうことを言っていたんですよ」
だからこそ、いなくなったあとも、場の中に彼女の気配が残る。
「彼女が生きたことも、亡くなったことも、ちゃんと意味を持たせたいんです」
いまも、笑いと悲しみのあわいに立っている。飛行機などから「太陽の塔」が視界に入れば、隣で「あ、見えた」と声を上げた人の記憶が甦る。こづえさんはいない。けれど、その残像は、嘉門の日々のなかに、たしかに立っている。
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