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横浜銀蝿、武道館を満タンにしたあとは「六本木で皿洗いも」…ギタリストJohnnyが語る「わが音楽史」AKB48で一発逆転

インタビュー 記事投稿日:2026.01.27 06:00 最終更新日:2026.01.27 06:00

横浜銀蝿、武道館を満タンにしたあとは「六本木で皿洗いも」…ギタリストJohnnyが語る「わが音楽史」AKB48で一発逆転

再び「横浜銀蝿のJohnny」として生きていくことを決めた(写真・木村哲夫)

 

 1980年代を席巻したロックンロールバンド横浜銀蝿」のリードギタリストJohnnyは、67歳になった。バンド解散後、ソロ活動を経て30歳でキングレコードに入社。アーティストからサラリーマンに転身し、ベルウッド・レコードの社長として辣腕を振るった。

 

 35年に及ぶ会社員生活に終止符を打って「横浜銀蝿」に完全復帰したのが65歳。2026年1月28日には、待望のソロアルバム『ヨコハマ・グラフィティ』をリリースする。音楽、そしてビジネスでも成功を収めたが、その道程は決して甘いことばかりではなかった。

 

 1980年6月、メジャーデビューを目前に控えた横浜銀蝿のメンバーは、キングレコードの新譜試聴会に出席することになった。そこにはスーツ姿の重役たちも並んでいる。リーダーの嵐ヨシユキが、前に出てあいさつをした。

 

「俺たちの契約は2年間。その2年でシングル1位、アルバム1位、武道館を満タンにして解散します!」

 

 この大胆な宣言に驚いたのは、重役たちだけではなかった。ほかのメンバーにとっても、寝耳に水の話だった。Johnnyが述懐する。

 

「え? この人、なに言ってるの? って(笑)。俺たちは単なる横浜の不良だから、そんなの無理だろうなとずっと思っていました。最初はね、バンドを組んで、シングルとアルバムを1枚ずつ出せれば青春の記念になるかな、くらいの気持ちだったんです」

 

 しかし、1981年に2ndシングル『ツッパリHigh School Rock’n Roll(登校編)』が大ヒット。空前の「銀蝿ブーム」が巻き起こる。

 

「目標に向かって一生懸命やっていくと、少しずつ夢が叶っていく。それまで適当に楽しんでいた人生とは違う充実感が得られるようになった。不良はゴールがあれば、走り通すことができるんです。3つの目標を叶えるのに3年3カ月かかったけど、完全燃焼した。解散するのがもったいないとは思わなかった」

 

 1983年、解散。横浜銀蝿の大ヒットによって、所属していた芸能事務所は、渋谷に8億円の自社ビルを建設した。一方、Johnnyは「思うところがあって」事務所から独立し、フリーとなる。1981年のソロデビュー曲『ジェームス・ディーンのように』が50万枚超を記録した実績もあり、前途は順風満帆に見えた。しかし、現実は過酷だった。

 

「解散後はソロ活動を頑張ってきましたが、銀蝿当時ほどは結果が出なかった。その後、事務所ともいろいろあってやめることになった。作家として松本隆さんの事務所に預かってもらった時期もありましたが、思うように売れない。家賃の支払いにも困って、六本木のクラブで皿洗いをした時期もありました。

 

 私生活では解散後、高校時代から付き合っていた女性と結婚しました。仕事がそんな状況でも、彼女は俺の音楽活動をずっと支えてくれましたから。でも、29歳のときに子供が生まれ、今度は俺が妻と子供を支えなければと思いました。アーティストをやめて、裏方に回ろうと腹をくくりました」

 

■看板アーティストのディレクターを歴任

 

 再就職先は、古巣のキングレコード。仲人を務めてもらった社長(当時)に頭を下げて、入社が決まった。

 

「トップダウンの入社だから、まわりも気を使うし、正直、最初はやりづらかった。本部長に『名刺に “Johnny” と入れろ』と言われたときは、勘弁してくれって思いましたよ。裏方への転身には相当な覚悟が必要だったので。

 

 でも、入ったからには真面目に一生懸命やって、“音楽史に残るアーティストを育てる” という目標を立てました」

 

 Johnnyは、中山美穂、高橋良明、的場浩司、森口博子など、同社の看板アーティストが所属する制作部に配属され、ディレクターを歴任していく。キングレコードはアイドル、アニメ、演歌と売り上げを順調に伸ばしていったが、1997年を境に売り上げは急速に冷え込んでいった。

 

「1999年ごろかな、2年ほど赤字が続き、リストラが始まった。トップアーティストを抱えていた俺たちのセクションも解体・縮小。俺自身も宣伝部への異動を命じられた。仕事はアニメや声優のプロモーション。CDを抱えてラジオ局を地道に回る、本来なら若手がやるべき仕事です。41歳にして制作の第一線を外されたショックは、あまりにも大きかった」

 

 仲間のクリエイターたちが他社へ去っていくなか、Johnnyは踏みとどまった。

 

「俺は、こんなことで辞めるのは悔しくてね。そんなとき、宣伝部の後輩が『Johnnyさん、一緒に頑張りましょうよ!』と声をかけてくれて、宣伝のいろはを教えてくれた。そこで培った媒体とのつながりは、その後の仕事において大きな財産になりました」

 

■インディーズレーベルの再興

 

 2年後、転機が訪れる。キングレコードの関連会社で、休眠状態だったインディーズレーベルの「ベルウッド・レコード」の再スタートにあたり、Johnnyに白羽の矢が立ったのだ。

 

「『ポストが空いた。そんなに制作がやりたいならやってみるか』と。ただ、小さな部署だから制作も宣伝もこなさなきゃいけない。そこで、宣伝部での経験が生きた。どんな境遇でも一生懸命やることがいかに大切か、痛感しました」

 

 Johnnyは「願掛け」として、1日4箱吸っていたタバコを断った。「浪花節ですよ。タバコすらやめられないようじゃ、ヒットなんて飛ばせない」と、不退転の決意を固めた。

 

 2004年10月、一本の電話が鳴った。Amazonの音楽担当者からだった。「Johnnyさん、なにか変なことしましたか? 今度出る『Sound Horizon(サンホラ)』のアルバムの予約が、すごいことになっています」。

 

 Sound Horizonは、サウンドクリエイターのRevoが主宰する音楽プロジェクト。アルバム全体でひとつの物語世界を描く独自のスタイルで、ネットや口コミを中心に熱心な支持を集めていた。ただ、メジャー流通でどこまで広がるのかは、社内でも読み切れない部分があった。

 

 そんななか、ベルウッド・レコードからリリースされるメジャー・デビューアルバム『Elysion-楽園への前奏曲-』が、Amazonの予約チャートで異例の動きを見せていたのだ。

 

「最初は『なんのこと?』って(笑)。聞けば予約チャートでずっと1位だと。サンホラを主宰するRevoくんは “天才” なので期待はしていましたが、結果、累計10万枚のヒットになった」

 

■頭を下げてAKB48を迎え入れる

 

 実績を評価されたJohnnyは、2007年、48歳で本社の制作部へと呼び戻された。翌年、キングレコードはAKB48を迎え入れることになる。

 

「ウチの若手2人が、すごい熱量で『AKB48をやりたい』と言ってきた。俺はアイドルのことはよくわからなかったけど、情熱は伝わってきた。でも、当時のAKB48はまだ一部のファンに向けたアイドルグループで、ソニーとの契約が終わったばかり。キングの役員のなかには、あまりいい顔をしない人もいました。

 

 それでも、俺は頭を下げた。自分の部下が情熱を持ってやりたいと言っていることを実現させてあげられなければ、上司としてなんなんだ? という思いがあったから」

 

 Johnnyは部下を連れ、AKB48の総合プロデューサーを務める秋元康氏の事務所を訪ねた。

 

「秋元さんとは初対面だったけど、部下たちの熱い思いを伝え『ぜひ、うちでやらせてください』とお願いすると、『じゃあ、君たちにまかせましょう』と応じてくれた。嬉しかったですよ」

 

 移籍第1弾となるシングル『大声ダイヤモンド』から、AKB48の快進撃が始まった。Johnnyは2009年にキングレコードの執行役員、2013年にはベルウッド・レコードの社長に就任した。

 

「振り返れば『音楽に正解、不正解はない。あるのは好きか嫌いかだけだ』と信じてやってきた。若い才能に土俵を作り、苦しいときは盾となって守ること。それは全うできたと思う。

 

 家で音楽を聴くことすら嫌になった時期もあったけれど、音楽で飯が食えた人生は、本当に幸せなことでした」

 

 還暦を過ぎ、定年後の生活を考えるようになった。

 

「もう音楽は聴く側にまわって、家庭菜園や釣り、陶芸、あるいはサーフィンを楽しんだり、社会人の大学院に通って学び直したりするのもいいな、なんてね。そんなスローライフを思い描いていた」

 

 だが、運命は彼を再びステージへと呼び戻す。2019年、「横浜銀蝿40th」のプロジェクトに参加。2022年4月、ステージ袖で車椅子に乗ったリーダーの嵐が、Johnnyに声をかけた。

 

「なあ、Johnny。横浜銀蝿は、お前がいなきゃダメなんだよ。ずっと一緒にやろうよ」

 

 同年7月、嵐が肺炎のため67歳でこの世を去った。Johnnyの脳裏には嵐の言葉が蘇っていた。それから約1年後の2023年6月、ベルウッド・レコードの社長職を退任し、長年勤めたキングレコードを退社する。ビジネスマンとしての人生に区切りをつけ、再び「横浜銀蝿のJohnny」として生きていくことを決めたのだ。

 

 そして、このたびリリースするニューアルバム『ヨコハマ・グラフィティ』は、横浜で生まれ育ったJohnnyの10代から20代までの記憶をたどる作品になった。

 

「あのころの心の葛藤や、恋の切なさを詰め込んだアルバムになりました。これを聴いて、みなさんも自分の青春時代をふと思い出したりして、『よし、もう一回ここから頑張ろう』という気持ちになってもらえたら、これほど嬉しいことはないですね」

 

 挫折も成功もすべて経験したいま、再び音楽と向き合う時間を迎えたJohnny。肩の力を抜きながらも、その表情はどこか楽しげだ。

 

「まさか、67歳で新しいアルバムを出せるとは思わなかった。俺発信じゃなくて、かつての部下が『2026年はソロデビュー45周年。アルバムを出しませんか?』って言ってくれてね。

 

 俺は元社長だから『(採算分岐点は)大丈夫なの?』ってつい聞いたら、『僕たちが頑張りますから!』って(笑)。だから、彼らのためにも、なんでも頑張ろうと思っている。この間なんて『TikTok踊ってください』って言われて、踊ったよ。年金? まだもらってないよ(笑)」

 

 

Johnny
1958年5月9日生まれ。神奈川県出身。横浜銀蝿のリードギタリスト。2026年3月21日には大阪・江坂「MUSE」、22日には愛知・名古屋「JAMMIN‘」、28日には東京・新宿「ReNY」でソロライブを開催

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出典元: SmartFLASH

著者: 『FLASH』編集部

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