
横尾忠則は老いのハンディキャップを自然体と受け入れる
「耳はほとんど聞こえず、目も霞んで、手は腱鞘炎だし……五感はもう全滅ですよ」
と、2026年6月には90歳を迎える横尾忠則は、自らの肉体をそう評して平然と微笑む。日本のグラフィックデザインの頂点を極め、44歳で画家へ転向。半世紀以上も絵筆を振るってきた巨匠は泰然とし、その語り口には微塵の悲壮感もない。新著『運命まかせ』(新潮新書)のタイトルどおり、自意識が目覚めてからずっと運を天にまかせてきたからだ。
「耳はもう、補聴器をつけてもぜんぜんダメ。極度の難聴ですから、こうして話していても、相手にマイクをつけてもらわなきゃ、ほとんど聞こえない。副鼻腔炎で鼻もきかないし、もとから喘息で喉もおかしい。目は白内障らしく、霞んで本も読めない。残ったのは第六感だけ。でもね、それでいい。身体が不自由になればなるほど、余計な情報が入ってこなくなる。ハンディがある状態を自然体だと思っている。いまは頭と身体の合作で描いています。アスリートの瞬間芸みたいなものです」
定年を控え、「これから何をすればいいのか」「老いが怖い」と右往左往する50代の読者にとって、横尾のこの達観はひとつの救いとなるかもしれない。私たちは失うことを恐れるが、彼は身体が思いどおり動かなくなることさえ、抗いがたい変化としておもしろがっている。
「腱鞘炎で腕も上がらないし、描けば描くほど、どんどん下手っぴになっていく。でも、以前の自分に戻ろうとするから苦しくなるんですよ。土台、自分にできることをそのときそのとき、成りゆきでやってきただけですから」
■画家になる考えは1mmもなかった
横尾はそもそも、アートに野心など持たずに育った。もっと素朴な、ビジュアルを通じたコミュニケーションが原点にある。
「ずっと切手を収集してたんですよ、小学生のころから。高校でも郵政省の認可を取って、郵便友の会を組織してね。ペンフレンドも国内・海外にたくさんいましたし、ハリウッドスターにファンレターを出して、実際にエリザベス・テイラーから返事や、クラーク・ゲーブルからブロマイドが届いたりしてね(笑)。似顔絵を描いて送ったら、リズなんて長い文面の返信をくれ、それが郵政省から出ている新聞にも載ったくらい、もう“郵便少年”だったんです。だから絵なんてその程度で、画家になろうなんて当時は1mmも考えていなかった」
当時は郵便局員になり、赤い自転車に乗って、町中を配達して回るのが夢。そのかたわら日曜画家をしていられれば、と漠然と考えていたという。
「高校2〜3年のころ、東京から転任してきた先生が画家で、その影響で美術部に入って油絵を描いていましたが、正直、おもしろくなかった。絵を描くのってしんどいですもん。でも、そこで描いた絵が何度かコンクールに入賞し、校長先生もえらく褒めてくれ、『才能があるから美大に行きなさい』と勧められたんです。美大合格者が出たら学校のPRになると思ったんでしょうね。それで、無理やり美大を目指さざるを得なくなった」
■“運命まかせ”のはじまり
しかし、経済的な事情が影を落とす。当時の横尾家は老いてすでに退職した養父母が「売り食い」をするような状態で、進学するにしても、学費を自分で用立てるばかりか、家へ仕送りをする必要もあった。
「いよいよ入試を翌日に控えた晩、すでに退職をし東京に戻っていた美術の先生のアパートに転がり込み、受験の最終準備をしていた僕に先生は告げたんです。『試験を受けるのはやめて、すぐ家に帰れ』って。普通なら反発するところでしょうが、僕は『ああ、そうですか』とあっさり受け入れ、そのまま帰郷したんです。先生も相当悩んだと思うんですが、どうも親父からその辺の事情を書いた手紙を受け取っていたみたい」
“運命まかせ”の大きな分岐点だった。だが、進学こそかなわずとも、横尾は養父母から「猫かわいがり」されて育ったことで、持ち前の自由な精神を育んでこられた。子どものいなかった父方の叔父の家に、横尾は2歳で養子に入っていた。
「養父母は僕を徹底的に甘やかしてくれた。何をしても怒られないし、わがままを言えば全部通るし、不自由の多い時代だったけれど大抵のものは与えられた。そのわがままがね、結局いまの絵を描くことと直結してるんです。わがままがなかったら、絵なんか描く必要はないんですよ。そういう環境で育ったのが僕にとっていちばん幸せなことだったと思う」
結局はポスター展の入賞作に目をつけた、加古川の小さな印刷所から声がかかり、「丁稚奉公」のような立場から社会人としてのキャリアをスタートさせた。
「そこで版下を書いたり、チラシを作ったりして。これもまた成りゆきでね、神戸の新聞社に誘われて。それから東京の日本デザインセンターへ。全部成りゆきなんですよ。自分でデザイナーになろうなんて決心したこと、一度もないんです。運命に押し流されるままに東京へ出てきました」
■MoMAの世界ポスター展で1位に
1960年に23歳で上京した横尾は、亀倉雄策や田中一光といった伝説的なデザイナーらが立ち上げた、日本デザインセンターというエリート集団の中に身を置くも、変わらぬ「運命まかせ」の姿勢で高度経済成長の荒波を乗り越えていく。
「寺山(修司)さんとか唐(十郎)君といった同年代の仲間と出会ってね、彼らの舞台のポスターを描くことになった。唐君は(状況劇場の)『腰巻お仙』のポスターが評判になるまで、存在そのものが社会的にも無名だし、評価の域にはまだ達してなかった」
1966年にシルクスクリーンで刷られた、このポスターは立ちどころに評判となり、1970年にニューヨーク近代美術館(MoMA)で開催された世界ポスター展で、1960年代を代表する世界のポスターとして1位に選ばれた。横尾が国際的アーティストとして認知された記念碑的な1枚だ。1965年には個展を開催し、あの三島由紀夫とも運命的な出会いを果たしている。
「三島さんともずいぶんおつき合いさせていただきました。ただ、三島さんは仲間と呼べない。最初から最後まで自分というものをいっさい崩さない、揺るぎない個を持っておられ、僕にとってはあまりに巨大な存在でした。そうした人たちとの関わりの中で、いつの間にか仕事が次から次へと舞い込んできた。僕はただ、その流れに乗っていただけなんです。そんな仲間ももうほとんど亡くなっちゃったね」
■突然の“洗脳”で運命が逆回転
そして、デザイナーとしてノリに乗り、世界中から仕事が舞い込むようになった絶頂期、運命と呼ぶにも不可解な力が介入する。それは44歳、1981年のことだった。横尾は突如として「画家転向」をし、デザインの世界から身を引く。MoMAでピカソの作品に触れ、衝撃を受けて転向した……というエピソードは有名だが、本人はそれを「世間向けの出まかせ」だと一蹴する。
「あれは本心じゃない。ピカソの影響とでも言わないと、世間が納得しないから言っただけで、本当はそれとは関係なく、自分の体の中を突き抜けていくような強い衝動が走り、見えない何かの力で“洗脳”されたんです。いちばんグラフィックが脂に乗っている真っ最中に、まったく反対の意識が僕を貫き通した。言葉に置き換えれば、『グラフィックは終わった、次は絵画だ』という声が外界からかどこからか聞こえてきた。僕はそれにまったく抵抗できなかったんです」
いわば、得体の知れない大きな力に「強制終了」させられ、新しい回路をつながれたのだ。横尾にとっての「運命」とは、自ら切り拓くものではなく、向こうからやってきて自らを呑み込む濁流のようなものか。
「人間が誕生したと同時に、その人を生かそうとする運命の力は備わっている。僕がじっとしていても、運命が何かを運んできてくれる。『自分で運命を作るんだ』と言っている人のところからは、運命の神様は手を引いちゃうんですよ。僕はただ、運命のお手伝いを受けているだけなんです」
親しかった人々が次々と黄泉の国へ旅立ち、ひとり取り残されたような感覚を味わっている。ただ、横尾はその寂寥感さえも、運命がもたらした新たな境地と開き直るのだ。
■何も決めない「自然さ」が重要
横尾は2004年から数年間、客員教授として多摩美術大学大学院の教壇に立った。その際、すぐに結果を求める学生たちの姿勢に痛烈な違和感を抱いた。それも国際的認知を得られれば、巨万の富を得ることさえ可能なほど、アートビジネスが確立してきたからだ。
「目的地とか結果をね、求める必要はないんですよ。もしやるとすれば、たったいまやってることが目的ですよ。なのに目的を彼方に置いちゃうんです。しかも、そこへ一足飛びで行きたがるんです。それ以前にね、絵があるじゃないかって。(キャンバスの)ここを赤にするか青にするかということが、まず大事じゃないですか。なのに、社会で成功もしたいっていう願望がね、ものすごく強いんですよ」
芸術の世界にもマーケティングが導入された結果、作家の内面から込み上げるパトスやエモーションよりも計画性が重視される。そうした傾向に老匠は強い抵抗感を覚えるようだ。
「写真家の森山大道君とはいま、一緒に作品集を作るところなんです。彼は街を徘徊して、何も決めずにシャッターを切っていく。その『自然さ』がいちばんいいんですよ。演出を捨てたところから、いいものが生まれる。かつての篠山(紀信)君だって、最初は演出して撮っていたけれど、あるときからそれがアホらしくなってやめてしまった。自分を消して、向こうからやってくるものをつかむ。それがいちばん強いんです」
このマイペースな創作態度が、若者世代と響き合っている。当人も認めるように、この何年か続いた大規模な展覧会に押し寄せるのは「若い人が圧倒的に多い」。
「それは若い人たちの意識と、僕の意識がどっかで通底してるっていうことかなと思うんですよね。会場にはセーラー服を着た高校生がいますからね」
つまり、アートマーケットとは無縁な、もっと若い世代は直感的に横尾作品から漂う“エモさ”に惹かれ、そのエネルギーを直に受け取っているのだ。
■死も“成り行き”
エゴを捨て、運命という奔流に身を投じる美学。その理想的な姿を、横尾は意外な人物に見出している。メジャーリーガーの大谷翔平だ。
「大谷の生き方が好きなんですよ。去年はとくにドハマりしていました。相手のチームに対してもちゃんと礼儀を尽くすじゃないですか。あんな人、いないですよ。だからアメリカの文化を変えちゃうんだよね。日本の政治家は、自分の地位とか評価ばっかり心配してるけど、大谷にはそれがない。野球という運命に身を投じて、ただそこに存在している。だから見ていて気持ちがいいんです」
大谷のような「無私」の境地こそ、老後という未知の領域へ踏み出す我々に必要な態度だと横尾は説く。また50代のサラリーマンを、横尾は「究極の運命まかせのプロ」と評する。配属も昇進も、じつは自分の意志ではどうにもならない流れの中にいるからだ。その「組織の運命」から解き放たれ、ようやく「個の運命」に身を投じる機会が定年にほかならない。
「やりがいなんて求めなくていい。やりがいっていうのは欲望ですから。欲望をコントロールして、ぼんやりしていれば、自然にやるべきことに出会っちゃう。それに、雑誌が読者を救済する必要なんてない。ほったらかせばいい(笑)。それより自分を救済することが大事だと思うからね」
意欲を失い、未来を憂う50代がいま、すべきことは、新しいスキルを身につけることでも、老後の資金計画を立てることでもない。これまで必死に握りしめてきた「自分」という手綱を放し、五感が衰えた先に見えてくる「成りゆき」という名の自由を受け入れることなのだ。
「描き残したものがあれば、明日やる。夜は寝たいから。その連鎖が生きるということ。死ぬことだって、成りゆきですよ。死を意識しすぎると、生が窮屈になる。死後の世界があるかないかなんて、行ってみなきゃわからない。だから、いまはこの『下手っぴ』になっていく変化を楽しんでいればいいんです」
90歳にして「下手っぴ」であることを楽しみ、「運命まかせ」を貫き続ける横尾忠則。その軽やかな背中は、老いという未知の領域へ踏み出す我々に、これ以上ない極意を示す。エゴを捨てて己を救い、肉体や精神の衰えすら変化としておもしろがる。その先にこそ、不安の入り込む隙のない、本当の豊かさが待っている。
取材・文/鈴木隆祐
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