
吉田照美
「僕も今年で75歳。番組も2017年4月にスタートしたから9年になります。僕が担当してきた番組では3番めに長いんですよ。そんなわけで、ひと区切りです。ただ、ラジオはやめません!」
『TERUMI de SUNDAY!』(BAYFM)が最終回を迎えた吉田照美は「卒業」する心境をこう語った。続けて、「伊東四朗・吉田照美 親父熱愛(パッション)」(文化放送)などで、ラジオパーソナリティを続けていくことを明言した。
昭和から平成のラジオ番組に数々の「伝説」を残した吉田は、どんなラジオパーソナリティ人生を送ってきたのか。
「もともとは、人前で話すことが苦手でした。それを克服するため、一浪で早稲田大学政治経済学部に入学すると、『多少は(人前で)しゃべれるぐらいにはなれるかな』と思ってサークルの『アナウンス研究会』に入ったんです」
そんな折、ふと聴いたラジオの深夜放送が、吉田の人生を大きく変えた。
「TBSラジオの『パック・イン・ミュージック』のパーソナリティだった小島一慶さんに衝撃を受けたんです。不治の病で亡くなったリスナーの女の子の生前の日記を朗読するっていう回があって、一慶さんは大泣きしながら読むんですよ。
それからは、もう一慶さんのファンです。同時に、『ラジオは自分が考えていたより、もっと聴取者と密着しているんだな』ということに気づかされたんです」
■入社試験の試験官はみのもんたさん
就職活動はラジオ局一本に絞った。だが、最初に受けた静岡放送は一次試験落ち。残りは、最終試験まで残ったニッポン放送と文化放送。後がなくなった。
「ニッポン放送は……落ちました。その翌日に、受かっていれば文化放送から合格の電話が来ることになっていたので、朝からずっと電話の前で待っていたけど電話が鳴らなくて……暗い雰囲気で夕飯を食っていたんです。
そうしたら電報が来た。見たら《アス オイデコウ ブンカホウソウ》と書いてある。それで翌日、文化放送に行ったら、担当者から『お前の家の電話は、コールするけど誰も出ない』と言われて。
自宅に帰って調べたら、確かに電話はかかるけどコール音が鳴らなかった(笑)」
ちなみに、文化放送の入社試験では、みのもんたさんが「音声試験」の試験官をした。
「みのさんのしゃべりが、文化放送の超人気アナウンサーだった土居まさるさんに似ていたので、僕は勝手に “土居さん2世” みたいに思っていました。みのさんからは『ラ行の発音が甘いね』と言われました」
入社した吉田は、相撲好きが理由で大相撲の生放送番組『大相撲熱戦十番』を担当した。力士が支度部屋から土俵に上がるまでをリポートするのが仕事だったが、そこで “事件” を起こす。昭和の名横綱・北の湖さんを大激怒させてしまったのだ。
「かれこれ、4年半担当したかな。横綱の北の湖さんには、本気でムッとされました。
支度部屋にはテレビがあって、たまたまワイドショーが流れていたんです。その番組で、僕が神田の神社でふんどし姿になって『水垢離(みずごり)』をする映像が流れたんです。
心身を清める厳粛な儀式なんですけど、横綱は『俺のそばによく来るあのバカが、ふんどしになって水をかぶってふざけている』みたいな受け止め方をされたみたいで、『俺に近づけるな』となったようです。
それを知らず、その後にフジテレビが主催で文化放送も協賛する『大相撲トーナメント』で、僕が支度部屋から中継しました。本場所とは違って和やかな雰囲気だったのですが、横綱に『恐れ入ります、今日はどんな作戦で?』とマイクを向けたら、『フンッ』とすごい鼻息をして顔を反対方向に向けられちゃった。
何がなんだかわからないから『すごい気合が入っています。横綱はかなり激しい相撲を見せてくれると思います』なんて適当にごまかしましたけど……付け人さんが『あれ以上聞いていたら、本当に大変でしたよ』と耳打ちしてくれました(笑)」
1978年、吉田は深夜ラジオ番組『セイ!ヤング』(1969~1981年)で、念願のメインパーソナリティを担当することが決まった。だが、「僕は目的を達成すると、その後に絶望が待っている人生なんです」と苦笑いで振り返るように、当時の裏番組に “強敵” がいた。
「同じ時間帯で、ニッポン放送の『オールナイトニッポン』が放送されていました。しかも、DJはタモリさん。『これはもう、何をやったって聴いてもらえないな』と絶望しました……」
吉田はスタッフと対抗手段を考えた。浮かんだのは、誰もやらないような「おバカ企画」。吉田は “団長” を名乗り街頭で突撃リポートを敢行した。
「毎年、東大の合格発表がニュースになりますけど、『あそこで映っちゃおう』ってことになって、僕は受験生でもないのに『胴上げをされることだけを目的に来た男』という企画をやりました。
東大の赤門前でスタッフに胴上げされる僕の映像を、 NHKはじめ各テレビ局がガンガン放送しましたが……これが物議を醸してしまいました。
運がよかったのは、永六輔さんにTBSラジオで『隣の局(文化放送)の若い吉田っていうアナウンサーが、こういうバカなことをやっておもしろかった』と言っていただき、さらに読売新聞がコラムで《マスコミは学歴偏重がよくないと言うが、東大の合格発表しか行かないのはへんじゃないか》といった内容を掲載して、僕の行動を絶賛してくれたおかげで、僕の首はつながりました」
この「聴取者を巻き込む」という演出で、吉田は人気パーソナリティの仲間入りする。
1980年にスタートした『吉田照美の夜はこれから てるてるワイド』では、女性が入浴中の浴室にマイクを仕掛けてトークをし、最後に体の一部をパチッて叩いてもらう「バスルームより愛を込めて」など、吉田の企画が次々にヒットした。
だが、まさに人気絶頂だった1985年、吉田は文化放送を退社。フリーに転身した。
「34歳でした。『このまま文化放送の局アナでいたら、いつまでしゃべらせてもらえるのだろうか』と考えちゃった。管理職になれば現場を離れるだろうし。そんな “恐れ” と同時に、『フリーになって限界までしゃべりたい』という気持ちになったんです」
■テレビでは出せなかった自分の “素”
フリーに転身後、吉田はテレビへ進出。『夕やけニャンニャン』(1985~1987年、フジテレビ系)、『11PM』(1985~1990年、日本テレビ系)、『ぴったし カン・カン』(TBS系)など、当時の人気番組に出演する。
「戸惑いは大きかったです。いわゆる “素” を出さなきゃいけないのがラジオで、逆にテレビは “素” を出しすぎると『外見の雰囲気と、その人の持ってる雰囲気が微妙にしっくりこない』みたいな違和感が出ちゃうことがあるんです。
ラジオ育ちの僕はけっこう強い言葉でしゃべるようになっていたんですけど、自分の見た目が強い言葉でしゃべるキャラに見えないらしくて。テレビでそれを自覚するまでに時間がかかりましたね」
テレビでは表現できなかった “素” を、吉田はラジオで爆発させる。
1987年に、代表番組となる『吉田照美のやる気MANMAN!』(文化放送)がスタートした。番組内で、文化放送の1年後輩になるアシスタントの小俣雅子アナを「小俣ぁ〜!」「このバカが〜」としゃべくり漫才のようにツッコミまくった。
「僕はそれまで2人でしゃべるという経験がなかったんです。リスナーは『本当に喧嘩をしている』と思ったみたいです。女性団体などから局に『(小俣の)力になりましょうか』っていう声が、何度かあったというのは聞きました。もちろん、お願いはしていないでしょう(笑)」
番組は2007年まで20年続く長寿番組になった。
3月1日、吉田は『TERUMI de SUNDAY!』の終了を発表した際に「普通のおじさん、おじいさんに戻ります」と語っていた。
「たいして意味はないですよ。番組が終われば、普通の生活に戻るわけですから。家には猫がいっぱいいて、そのお世話も大変ですけど。
じつは6年半くらい前から、僕自身のXで4コママンガを描いていて、それが本になって出版されています。次は、それをアニメ映画化するのが夢なんです。だけど、これが(制作費は)6億円かかるらしい。この予算をどうするかが、目下の大問題です」
次は、アニメ界で大暴れだ!
写真・金谷千治
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