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直木賞作家・志茂田景樹「要介護5」状態のベッドから激白“カゲキファッション”健在で「人生は強気にいったほうがいい」

インタビュー 記事投稿日:2026.05.01 06:00 最終更新日:2026.05.01 06:00

直木賞作家・志茂田景樹「要介護5」状態のベッドから激白“カゲキファッション”健在で「人生は強気にいったほうがいい」

自宅の介護ベッド上で取材に応じてくれた志茂田景樹氏(写真・木村哲夫)

 

 白髪に、ところどころ鮮やかなオレンジと紫が差し込まれたヘアスタイル。首元には目を引くピンクのストール、足元には星条旗をあしらった靴下と、細部まで遊び心を感じさせる装いだ。往年の個性そのままに、いまなお強い存在感を放っている。

 

 作家志茂田景樹、86歳。自宅の一室、介護ベッドに腰掛けて、本誌のインタビューに応じてくれた。

 

 2024年5月、「要介護5」の認定を受けた。厚生労働省の定義によれば、「入浴、排泄、食事などの日常生活において、継続して常時介護を要する状態」である。

 

「僕は、難治性の『関節リウマチ』を抱えています。両腕の可動域は、横方向には50cmほど、上下は腰から胸の少し上までが限界。その範囲を超えると激痛が走ります。天気が悪いと痛みが増しますが、雨や曇りになりそうなときは半日前に体が敏感に反応するので、もはや『人間気象台』になってますの(笑)。

 

 食事は1日3食。指が変形して箸が使えないため、フォークで食べています。汁ものは女房に介助してもらっています。食欲はありますよ。夜10時すぎに寝て、朝6時には目が覚めます。血液検査は、おおむね正常値です」

 

 受け答えは明晰で、ユーモアも健在だ。なにより、悲観のかけらもない。

 

「要介護5になった人の平均余命を調べてみたら、男性は1.23年というデータを目にしました。じゃあ、僕が新記録を作ってやろうじゃないか、と。そろそろ平均の2倍に達します」

 

■新幹線の個室でラブシーンの声を……

 

 中央大学を6年かけて卒業後、6~7年の間に不動産会社、広告代理店、町内会の事務局、旅行会社、興信所、保険調査員、週刊誌のライターなど、20種以上の職を転々とした。

 

「つねに仕事を新聞広告で探していましたからね。会社の規模や給料、交通の便など、いっさい関係なく、なんでもよかったんです。だから辞める理由も深刻なものではなく、たとえば、直属の上司がどうにも合わなくて、いつも鼻毛が出ているのが気になって2週間で辞めたこともある。3カ月や6カ月で辞めた仕事が半分以上で、最長でも1年半。そうこうするうちに、だんだん活字にかかわる仕事に軸足を移していきました」

 

 1976年、『やっとこ探偵』で小説現代新人賞を受賞してデビュー。1980年、40歳のときに、『黄色い牙』で直木賞を受賞すると、一躍、ベストセラー作家の仲間入りを果たした。

 

「4~5日で、原稿用紙400枚前後を書かなければならないこともあった。まとまった時間が取れなかったため、新幹線での移動中に物語をテープレコーダーに吹き込み、それを秘書が文字に起こして出版社に渡す、というスタイルになっていきました。昔は新幹線に個室があって、そこで小説のラブシーンの“そういう声”をテープに吹き込んでいたら、車掌が飛んできたこともありました(笑)」

 

 口述筆記を武器に年間数十冊を書き、多い月には5点以上の新刊が同時に書店に並んだ。多作ぶりに加え、そのファッション性も話題をさらった。原色に染め上げた髪に、ド派手なタイツ。現代の価値観で見れば「ジェンダーレス」の先駆的存在といえるが、当時は“奇人変人”として世間に衝撃を与えた。時代が平成になると、その異様なまでの個性を原動力に、メディアのど真ん中を突き進んでいった。

 

「小学生のころ、姉のブラウスを着て親戚の前に出たことがあって、みんなに『うわっ!』と驚かれながらも、小遣いをもらえた。ああ、これはいいなと思った。ちょっと変わった格好をすると、気持ちが高揚するんです。僕は飽きっぽい性格で、新しいものが好き。テレビに出るときは『作家』という肩書に縛られず、自分をさらけ出すことにしました」

 

 そんな折、ニューヨーク帰りの女性から「あなたに似合いますよ」とお土産にもらったタイツが、“カゲキファッション”の原点となった。

 

「そのタイツには、マリリン・モンローのセクシーな笑顔が、8つも9つもプリントされていて、穿いて鏡を見たら、自分自身にドッキリして、喜んでいる僕がいた。これがなかなかよかった(笑)。その格好で麻布十番から銀座まで、1時間ほど歩いてみたら、すれ違う人たちの反応がすごくてね。子どもやお母さんは笑ってくれるんだけど、新橋のサラリーマンには案の定、後ろ指をさされましたね。

 

 でも、そんな格好にも慣れてテレビに出るようになると、ファッション関係の仕事も増えて、週刊誌のグラビアを飾ったこともあります」

 

 独特のスタイルは、心身ともに自由になるための活動だったと振り返る。

 

「生まれたときは無垢の心だったのに、時間がたつにつれて、いろんな虚飾や背伸びを重ねていく。いわば、お札を貼りつけていくようなものです。そのお札を、すべては難しくても、できる限りはがしていきたい。僕にとって、そのための手段がファッションだったんです」

 

 当時としては珍しい、“顔の知られた”売れっ子作家は、夜も多忙だった。毎晩のように、銀座、赤坂、六本木、麻布十番へと足を運んだ。華やかで美しい女性たちに、とにかくモテた。

 

「テレビ番組の収録が終わると、そのまま飲み歩いていました。銀座から六本木へはタクシーで向かうのですが、片手を広げて『5000円払う』という意思を示しても、午前2時まではだいたい無視。人差し指1本で1万円を示すと、ようやく停まってくれました。正規料金なら1200円ほどなのに、1万円を払う。そんな時代でした。

 

 月の飲み代? 事務所に届く請求書と、自分の小遣いを合わせると、だいたい月200万円くらい。出版社も別で出してくれていたから、合計すれば月300万円以上は飲んでいた計算になります。そんな状態が7~8年は続きました。夢がありますよね。でも、結局は紙切れなんですよ」

 

 人生の頂点を極めたかに見えたが、実情はそうではなかったという。

 

「そんな生活にも飽きてくるんです。売れるジャンルのものをいち早く嗅ぎつけてトップになる。女性警視を主人公とする『孔雀警視』シリーズなどのヒットを飛ばし、架空戦記を含む幅広いジャンルに筆を伸ばしていった。でも、次第に虚しい気持ちに襲われるようになっていくんですね。ものを書くというのは、いろんな感情や思いを胸にいったん詰め込んで、それを言葉にしていく作業。バラエティ番組に出て、自分を吐き出して、好き勝手に振る舞う。それでバランスが取れていたんだけど、やがて違和感が膨らんできました。本当は、もっと書きたいことがあるんじゃないかと、自問自答するようになった」

 

 1996年、大きな転機を迎える。志茂田さんは出版レーベル「KIBA BOOK」を興し、絶版となっていた自著の復刊に取り組んだ。

 

「レーベルを立ち上げたいちばんの理由は、自分が書きたいものだけを書いていく、そういう志でした。しかし、結果的に思うように売れなかった。スタッフを何人も抱えていたこともあり、2~3億円ほどの赤字を抱える状態になって、やむなく少しずつ縮小していきました」

 

■「僕の人生はまだある。それが励みなんです」

 

 一方で、その後の志茂田さんの基盤となる“ライフワーク”が、思いがけず始まった。

 

「福岡の書店での僕のサイン会に、大人にまじってたくさんの子どもたちが集まっていました。そこで急きょ、絵本の読み聞かせを始めると、子どもだけでなく大人もその世界に入り込んでいくのを目の当たりにして、カルチャーショックを受けました。そして、物語を分かち合う力を信じて、1999年の秋、『よい子に読み聞かせ隊』を結成。軸足を移し、本格的に活動を始めました」

 

 全国の幼稚園や小学校、図書館、さらには被災地などへ足を運び、絵本の読み聞かせと音楽を組み合わせた独自のパフォーマンスを25年以上にわたって続けてきた。講演活動を含めた累計は、ボランティア(200カ所以上)を含めて、1900回以上にのぼった。

 

 近年、志茂田さんの存在感を押し上げているのが、Xでの発信だ。フォロワーは42万人を超え、その投稿は“人生訓”として幅広い世代に共有されている。本誌の読者にアドバイスを贈るとすれば、どんな言葉だろうか?

 

「弱気になるな、ということですね。人生は強気にいったほうがいいことが多い。強気というのは、前を向くということ。60歳、65歳で会社を離れたとしても、その後を余生と考えるな。僕なんか、明日があるかもわからないし、余生は10年も20年も残っていない。どこまであるかわからないけど、僕の人生はまだある。それが、いまの僕の励みなんです」

 

 体は自由を失っても、志茂田氏は前へと歩み続けているのだ。

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出典元: 週刊FLASH 2026年5月12日・19日合併号

著者: 『FLASH』編集部

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