芸能・女子アナインタビュー

「仕事がなかったら、死んでた」田原総一朗さん 亡き妻への20年以上消えぬ喪失感のなか、“今思うこと”

インタビュー 記事投稿日:2026.07.18 06:00 最終更新日:2026.07.18 06:00

「仕事がなかったら、死んでた」田原総一朗さん 亡き妻への20年以上消えぬ喪失感のなか、“今思うこと”

田原総一朗さんは本誌記者を一喝したが、その後は、穏やかな表情に(写真・木村哲夫)

 

 長年にわたり、第一線で刺激や笑いを届けてきた表現者たち。その胸には、愛する人と過ごした大切な時間が、色あせずに残っている。田原総一朗さんが、2004年に67歳で亡くした妻・節子さんとの思い出を語る。

 

「くだらないことを聞くな!」

 

 妻・節子さんとの思い出を尋ねていると、田原総一朗さん(92)は、不意に声を震わせながら本誌記者を一喝した。その言葉は、愛する人を失った痛みを、安易な言葉でくくられることへの抵抗のようにも聞こえた。

 

 節子さんを亡くしてからすでに20年以上が過ぎている。それでも田原さんは、いまなお深い喪失のなかにいる。

 

「最初は怖かった。だって、向こうが偉くて、僕はぜんぜん偉くなかったんだから」

 

 田原さんが節子さんと出会ったのは、岩波映画製作所に在籍していた1960年代初めのことだった。日本テレビの『奥さま、こんにちは』に、ディレクター兼プロデューサーとして携わっていた田原さんに対し、節子さんは同番組のキャスターを務めていた。

 

 制作スタッフと局アナ。仕事上の立場にも隔たりがあり、田原さんにとって節子さんは、まさに高嶺の花だった。

 

「彼女は、すばらしい女性だった。まず、きれいでしょう。一目惚れだった。それから、嘘を言わない。思ったことを率直にぶつけてくる。僕は、そこに惹かれたんだ」

 

 その後、田原さんが東京12チャンネル(現・テレビ東京)へ移ると、2人の接点はいったん途切れた。だが、共通の知人を介して再会し、喫茶店で言葉を交わすようになった。互いの生き方や考え方を遠慮なくぶつけ合う時間を、田原さんは後年「論争」と振り返っている。

 

「好きな女性が、まともに議論の相手になってくれる。これは嬉しいよ。彼女とは本気で話ができた。だから、一緒にいて楽しかった」

 

 互いに家庭を持つなかで再会し、長い年月を経て、2人は1989年に結婚した。節子さんは、田原さんの生活と仕事を支える存在になっていく。

 

「女房というより、僕のプロデューサーだった。仕事を受けるかどうかの判断から講演の打ち合わせ、原稿の相談まで、すべてまかせきっていた」

 

 1998年10月、節子さんに炎症性乳がんが見つかった。最初に診た医師の見立ては、余命6カ月。

 

「病気だとわかったときは、とにかく治さなきゃいけないと思った。何があっても治すんだ、と。僕にできることは何でもやろうと思った」

 

 節子さんの闘病が始まってから、田原さんの日常は一変した。入浴を手伝い、体を洗い、髪を洗う。弱っていく体を支えながら過ごした時間は、夫婦に残された、かけがえのない時間でもあった。

 

「体にふれて、声をかけて、世話話をする。そういう時間は、ものすごく濃いコミュニケーションだった。愛する彼女のためだから、介護は楽しかった。でも、その体が日に日に弱っていく。それを見ているのは、本当に苦しかった」

 

 2004年8月上旬、田原さんには、アメリカ、中国、北朝鮮をまわる大きな仕事が控えていた。なかでも北朝鮮では、日朝交渉のキーマンに会えることになっていた。だが、出発を前にした7月下旬、節子さんの容体が急速に悪化する。医師からは、覚悟を促されていた。

 

「貴重な取材の機会だから、もちろん行くつもりだった。でも、先生からは『帰国予定日までもたないかもしれない』と言われていた。だから、いったんは諦めた。彼女に正直に話したんだけど、表情は険しかった。もう会話はできなかったけれど、『行ってこい』と、言っているように見えた」

 

 田原さんは、自分の声をカセットテープに吹き込んだ。そして家族に、節子さんの枕元で流してほしいと頼み、海外出張へ向かった。

 

「愛してるよ」

 

 テープに吹き込まれていたのは、その言葉を何度も繰り返すメッセージだった。

 

 8月13日、帰国予定日の前日。田原さんは北朝鮮で、節子さんの訃報を聞いた。

 

「彼女が死んだという現実を、なかなか受け入れられなかった。体の半分を持っていかれたような感じで、これからどうやって生きていけばいいのか、わからなかった。死のうと思って、青酸カリを手に入れようとしたこともあった」

 

 喪失感を紛らわせたのは、仕事だった。イラク戦争、自衛隊派遣、郵政民営化。政治の大きなテーマが次々と動くなか、田原さんは現場に立ち続けた。

 

「仕事がなかったら、どうなっていたかわからない。僕はたまたま仕事があった。政治が動いていた。大きな問題が次々に起きた。だから、そこに入っていくことで、なんとか自分を保てたと思う。仕事がなかったら、死んでたね」

 

 節子さんの遺骨を、田原さんは長く手元に置いていた。3年ほどして、信頼する僧侶に諭され、ようやく納骨した。

 

「喪失感を何で埋めたか? すべて、彼女のことを思うことで埋めてきた」

 

 田原さんの声がだんだん小さくなった。ひとつ息をついて、そして、叫んだ。

 

「死んだ彼女とは、もうセックスができないんだ」

 

 田原さんの人生の真ん中に、いまも節子さんが生きている。

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出典元: 週刊FLASH 2026年7月21日号

著者: 『FLASH』編集部

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